Entries

『その名にちなんで』 ジュンパ ラヒリ

その名にちなんで (新潮文庫)その名にちなんで (新潮文庫)
(2007/10)
ジュンパ ラヒリ

商品詳細を見る


「ゴーゴリ」、このベンガル的でもアメリカ的でもない名前が、アメリカに住むベンガル人夫妻の長男に付けられた。本当はインドに住むおばあちゃんが、正式な名前を付けて書き送ってくれるはずだったのに、その手紙は届かず、「ゴーゴリ」が彼の名前になった。

このロシアの作家の名を持つアメリカに住むベンガル人とその家族の物語は、一見とても特殊なようだが、非常に普遍的なことを感じさせてもくれる。

ベンガル人は、本来名前を二つ持つという。小さい頃の愛称と正式な名前。親戚や友達からは生涯愛称で呼ばれ、正式な名は公の場面や各種書面で使われる。正式な名には「果てしない」「悲しみを乗り越える」などそれぞれに字義がある、というのは日本人の名前にも少し似ている。
またベンガル人は、夫婦で名前を呼び合わない。「ねぇ、ちょっと」というような呼びかけで会話が進む。ファーストネームで呼び合うアメリカ方式に比べると、私はベンガル式の方に共感を覚える。
ゴーゴリの両親は、やたらと本名を短縮して呼ばれるアメリカの幼稚園に対して、あまり良い感情をもっていない。

ベンガルとアメリカの違いは、名前のことについてだけに留まらない。ゴーゴリの両親が眉をしかめるようなアメリカ人の振る舞いは、
家の中でも靴を脱がないこと。
食べかけのサンドイッチや一囓りしただけのリンゴをぽいっとゴミ箱に投げ捨ててしまうこと。
社会的な地位のある人でもヤードセールで買いものをし、50セントのズボンを平気ではいていること。
色鮮やかで、ジャンキーで、お手軽な誕生パーティーのこと。(それに引き替えベンガル人の集まりのご馳走は何と手が込んでいておいしそうなこと!!!)
等々。
これらは、私がオーストラリアで感じていた違和感とほとんど同じものだ。アメリカはメルティングポットでなくサラダボウルだという言葉を聞いたことがあるが、それぞれの民族が溶け合ってしまわず、民族の違いを肌で感じながら暮らしているのが多民族国家の実態なのだ。

私がこの物語を「普遍的」だと評したのは、私がここで感じたベンガル人への共感の多くを、オーストラリアで出会ったエジプト人や台湾人の友人達、オージーと国際結婚した日本人達も、同じように感じるであろうと思うからだ。

ゴーゴリが小学生の頃の描写、両親の心情は、私たちがオーストラリアに暮らしていた頃を次々と思い出させてくれた。
子供達は、家では故郷の言語で喋り故郷の文字を学びながら、学校では英語も話せなければならない。故郷の料理を四苦八苦して作り続けていても、現地の食習慣は確実に入り込んでくる。クリスマスやイースターは学校行事にもなっているから、宗教としてではなく、イベント、習慣として受け入れざるを得ない。

それでも私たちは故郷に帰ることがわかっていたから、日本の文化や習慣を守ることができた。子供達は「日本人である」という自己意識をかえって確立できた。
しかしゴーゴリは、成長するに従って、混乱の境地に陥っていく。
それには、どこの国にもそんなファーストネームを持つ者はいない「ゴーゴリ」という名前も強く影響している。そんな名前に本人が悩み始める頃から先は、私の知らない世界だ。
ベンガルにルーツを持ち、非常にベンガル的な両親を持つけれど、アメリカ人として生きていかねばならぬゴーゴリがどのように人生を紡いでいくのか、とても興味深く読んだ。様々な人々、特に女性との付き合いの中で、ベンガルに反発し、アメリカにも反発し、アメリカに慣れ、ベンガルを懐かしみ、自分が何者なのかを探し続ける。
今でもオーストラリアにいる前述した友人達は、私よりも真剣な思いで、自分の子供達と重ねながら、この本を読むことだろう。

どんなにグローバル化、ボーダーレス化したといっても、世界には様々な民族がいて、それぞれの文化を持っている。名前の付け方などという普段は当たり前に思っていることでさえ、その民族の思想や文化が反映されている。そして、それらが一人一人の人間の人生に大きく関わり、人間の厚みや深みを作り出していく。
日本にいると今の生活に慣れすぎて、そういうことを忘れがちだが、本当はとても大事であるということを、この本が思い出させてくれた。


※同じ作者による短編で、こちらも異文化や生活習慣の違いによる心の機微が様々な舞台で展開されます。上に紹介した『その名にちなんで』と甲乙付けがたい作品です。

『パンデミック・フルー襲来-これが新型インフルエンザの脅威だ』 木村 良一

パンデミック・フルー襲来-これが新型インフルエンザの脅威だ- (扶桑社新書)パンデミック・フルー襲来-これが新型インフルエンザの脅威だ- (扶桑社新書)
(2009/02/27)
木村 良一

商品詳細を見る


国内でアライグマが鳥インフルエンザに感染しているのが初めて見つかったという。以前なら、鳥が感染したのもアライグマが感染したのも、同じようなことだと捉えていただろう。鳥類でなく哺乳類が感染したことにニュース性があるのだろう、アライグマも豚と同じように鳥インフルエンザにかかる可能性のある動物なのだろうか、など、さまざまなことを考えるようになったのは、この本を読んだからである。

パンデミックとは感染症の世界的な大流行のこと。フルーはインフルエンザ。つまりこの本は新型インフルエンザの大流行に警鐘を鳴らす「小説」である。
「小説???」というのが本書を知った私の最初の印象だ。著者は新聞記者で、題材は社会的な関心事となっている新型インフルエンザ、そして極めつけにこれは新書版なのだ。新書版で小説とは珍しい。いったいどんな内容なのか、また小説としての完成度や読みやすさはどうなっているのか、いろいろな意味での興味が沸いてきて、読んでみることにした。

主人公は新聞社の社会部記者。今から24年前の横浜で、祖父・父親・息子の三人が次々と「変死」したという情報を部下が仕入れてくる。同時期に、養鶏場の鳥が大量死していた。しかし養鶏業界にとって「鳥インフルエンザ」は、決して珍しい病気ではなかった。人間の変死と鳥の大量死はどこかに接点があるのか・・・。
新聞記者は、この不思議な事件を探っていることを他社に悟られないよう取材し、上司や部下と共に、スクープのタイミングを図っていく。

取材に駆け回る場所が横浜・湘南という洒落た所であり、ライバル記者は魅力的な女性記者であるので、事件ものというより、軽やかな恋愛小説でも読んでいるような気分になってくる。重いテーマだと構えていたが、想像していたような、目をそむけたくなるような描写や親しい人との別れなどは皆無といってよい。肩の力を抜いて読んでいるうちに、取材によって得られる新型インフルエンザに関する知識を、読者である自分もいつのまにか習得している。

取材合戦やある人物の入院など山場はあるのだが、心を揺さぶるとか涙が溢れるといった場面は全くない。著者が意識しての事かどうかはわからないが、読者のパニックを避けようとした結果ではないかと感じた。小説の中では、新型インフルエンザに関する新聞記事を書くときに、主人公も上司も、社会にパニックが起こらないようにすることを重視していた。この本を書くに当たっても、同じような意識が働いたのではないかと思われる。しかしそのような筆致のおかげで、科学的な知識を正確に伝えようとしていることがわかり、また必要以上の心配や大騒ぎよりも先にすべきことがあるのだということに気づくことができたような気がする。
著者の木村良一氏は、あとがきで

新型インフルエンザに対しては、国民ひとりひとりがその脅威を正確に認識して冷静に行動することが何よりも大切である。本書によって新型インフルエンザの理解が進み、その被害を食い止めることができたらこれほどうれしいことはない。

と書いている。その目的のためには、読者を感情的にしてはならないのだ。そして誰にでも読みやすくなければならない。小説という形で、重くなりすぎず、しかし専門知識をわかりやすく書くというこの形式は、目的に見合ったものではないかと感じた。

また同じくあとがきには、こうも書かれている

なお、本書で触れた新型インフルエンザが発生したときの対処法や予防法は、実際に推奨されているものである。参考にして欲しい。自分と家族を守るには正確な情報の把握と適切な対処が重要なのだ。

「マスクをした方がよい。」「やはりうがい手洗いは効果的。」など、これまでに聞いていたことでも、内心ではそんなことで防げるのかと半信半疑だった。
一方、「患者がでた地域を封鎖するなんて大袈裟ではないか。実際は普段通り会社に行ったりするのではないか。」と思っていた。
どんな考えが正しくて、どんな考えが間違っているか、この小説で確認するだけでも少し安心できる。

「新型インフルエンザ」について知っているようだけどあまり知らないなぁ、でも難しそうできっとわからないや~、あまり熱心に勉強する気もないし・・・、という方には、気軽に読めて最低限のことを知ることができる本書をお薦めしたい。実のところ、私自身が、鳥の感染とアライグマの感染の違いもわからない、そういう読者だったのだ。

※次回は、やはり新型インフルエンザを小説という形で教えてくれる児童書『病気の魔女と薬の魔女』を紹介する予定です。→紹介しました。おもしろくて役に立つ「知識のワクチン」を是非!

『楽園』 宮部 みゆき

楽園 上 (1)楽園 上 (1)
(2007/08)
宮部 みゆき

商品詳細を見る


私が忙しいのを知った友人が、
「骨休めに読みなよ。」
と本を何冊か貸してくれた。どれも気軽に読めておもしろい本だという。
「この『楽園』なんて、ほとんど徹夜で読んだ。」
と教えてくれる。それじゃあ骨休めにならないじゃないの・・・と笑いながらも、「そんなにおもしろいの?」と半信半疑だった。宮部みゆきさんの短編を一つだけ読んだことがあるが、スラスラ読めるのだが、ちょっと現実離れしていて、後に何も残らない軽さが苦手だった。

そして『楽園』。スラスラ読める。人が頭の中に思い浮かべている光景を見てしまう能力のある男の子・・・やはり現実離れしている。しかし、続きが気になって読み進む。

次々と登場する様々な家族。男の子と母親、母親の生家とその家族や親戚、男の子が人の頭の中に見た事件に関わる一家、男の子に頭の中を見られた人物の家族や親戚・・・。
家族の誰かが誰かに影響を与え、誰かが誰かから影響を受け、それぞれの人生ができていく。誰かの一言が、昔のボタンの掛け違いが、人生を狂わせていくことになる。

優しかったり、面倒見が良かったり、端から見ると美徳であることが、良い結果を生まないということもある。家族に対して真の優しさをもっているなら、心を鬼にして叱ったり、突き放したりしなければならないこともあるのだ。『楽園』に出てくる不幸な道を辿った人たちの家族は皆、そこをはき違えている。

私が特に興味をもったのは、妹への嫉妬からグレていった姉とその一家だ。
妹や弟が生まれるとヤキモチを焼くというのは良くある話だ。だから第二子以降が生まれるとき、上の子のヤキモチをどのように逸らし、どのように乗り越えさせるかに、親は心を砕く。子供たちに同等の愛情を注ぎながら、よく観察して、時には上の子への愛情表現を大げさにしてみたり、「全く同じ」を求められた時には、そうはいかない場合もあるのだと諭したり・・・。親も試行錯誤しながら、嫉妬心を収めさせ、仲の良い兄弟姉妹関係を築かせることに腐心する。

『楽園』の姉は、嫉妬心が小さな芽であるうちに摘まれることなく、自分の成長とともに嫉妬心も大きくなっていったのだろう。嫉妬心が大きくなって、グレ始めたときも同様に、その不良の芽は誰からも摘まれなかった。三つ子の魂百までという言葉があるように、大きくなってからの芽は摘みにくい。小さいうちに、自分の子供をよく観察し、良い芽は伸ばし、悪い芽は摘んで置いた方が、親の方も楽ができただろうに。それを怠ったが為に、楽ができないどころか、あんな苦渋を味わうことになるとは・・・。後の祭りとはこのことだ。

前回読んだ作品とは違って、『楽園』は読み終わった後に、現実の社会、現実の家族に当てはめて、考えることの多い作品だった。
宮部みゆきさんは、「ミステリー作家」と分類されることがあり、推理小説の謎解きのようなものを期待していると、肩すかしをくう。筋書きの中に事件が出てくるが、それは現代社会を書き表す材料のひとつに過ぎないのかもしれない。
たまには友人に本を借り、読まず嫌いをなくすというのも良いものだ。

『にごりえ・たけくらべ』 樋口 一葉

にごりえ・たけくらべ にごりえ・たけくらべ
樋口 一葉 (1949/06)
新潮社
この商品の詳細を見る


中学生の頃、自分と同じ年頃の子供が出てくる本だからと、『たけくらべ』を読んでみたが、わからなくて放り出してしまった。当時は文語表現が難しすぎるのかと思っていたが、大人になってから他の作品も読み、『たけくらべ』は特に難しかったのだと思うに到った。

この本の解説では、『たけくらべ』は「ローカルカラーを書ききって」いると表現されているが、まさにそうなのだ。遊郭周辺が舞台である『たけくらべ』には、その土地特有の慣習や用語がでてきて、注釈なしではとても読めない。また、遊女になることが定められている美登利が同じ年頃だからといって、 その心境を推し量るには、中学生の私では人生経験もなにもかもがまだ足りなかったのだ。

他の作品には、状況が容易に想像できるものもあり、そのような作品から読むべきだったと思う。

例えば、『十三夜』は身分の高い男に見初められて嫁いだ阿関が、婚家で馬鹿にされ続けて、遂に堪忍袋の緒が切れて実家に駆け込むという、非常にわかりやすい筋である。それさえわかれば、心痛を吐露する阿関や、娘を不憫に思う気持ちを押し殺して説得する父親の台詞は、臨場感に溢れ、ぐうっと引き込まれていく。文語などは、そうして夢中で読んでいくうちに慣れていく。
帰路につく阿関には意外な展開が待っている。そしてせつない結末。ああ・・・これで終わりか、と空しくなり、心に余韻がいつまでも残る。

結末の余韻が、一葉の作品の特徴であるかもしれない。
『大つごもり』では、最後の最後で、放蕩息子にあんな心意気があったのかと驚かされる。
『たけくらべ』を読み終えたとき、私は、映画『ローマの休日』を観終えたときの感情を思い出した。淋しくせつないけれど美しい。『たけくらべ』の評価が高いのは、この結末に依るところが大きいと思うが、その結末に辿り着くまでには、遊郭周辺の子供たちの力関係や、友情、淡い恋心、家族や地域社会との関わりが、繊細に捉えられ描き出されている。

二十代の前半で、それも数年の間に、これだけ様々な立場の人たちとその心境を、どのようにして書き表すことができたのだろう。よく言われるように、遊女達との交流が情報源だったにしても、それを井戸端会議に終わらせなかったのは、才能と小さい頃からの読書の賜であろう。

今日は樋口一葉の命日である。享年二十五歳。若すぎる。

※樋口一葉の生涯について書かれた本
『一葉』 鳥越 碧

『富士山頂』 新田 次郎

富士山頂 (文春文庫)富士山頂 (文春文庫)
(1974/01)
新田 次郎

商品詳細を見る


富士山頂に気象レーダーを設置するという計画は、当時国家的な大事業であった。
昭和三十八年、建設資材の運搬は当初、馬方組合と強力組合に依頼された。富士山での荷物の運搬は馬力と人力に頼っていた、そんな時代である。積雪や雲による視界の悪さからすると、年間の作業可能日数は四十日と推定され、二年の建設期間延べにしても八十日しか実働日数がとれない。しかも「日本の象徴」である富士山の頂上に、「世界一」のレーダーを設置するというのは、国内外から注目されており、失敗は許されない。

新田次郎は、気象庁に在籍中、この仕事に関わっていた。それで、この小説には自伝的な要素もあるのだが、この事業を幅広い視野で客観的に描き出しているところは、一般的な自伝とはかなり趣が違う。
新田次郎がモデルだと思われる葛木測器課長は、レーダー完成後、謙遜気味に「ただ見ていただけだった」と言う。測器課長の仕事は、この事業の方向付けをすることで、業者の選定、他官庁との交渉、マスコミ対策などを、一手に引き受けていた。「日本一」の仕事に関わりたい業者の売り込み、面子と権限にこだわる他官庁からの干渉、作業に支障を来す内容だろうがスクープを取りたがるマスコミ、これらを全て間近で「見ていた」ことが、この事業を俯瞰図的に書くことに繋がったのではないだろうか。

俯瞰とはいっても、具体的に動いているのは個々の人間だ。人間同士の会話から協力体制が生まれたり、逆に不信感からその人間の所属する組織を排除することになる。困難な作業も、優秀な技術を持つ個人に当たらせることで、不可能が可能になる。
そして、山頂近い作業現場の監督が重視するのは、人の数でも技術でも金の力でもなく、人の気持ちであった。高山病や過酷な労働に耐えかねて下山する建設作業員が続出する中で、そう悟ったのだ。

「私は毎日、作業員たちに、お前達は富士山に名を残すために働けと云っているんです。なぜ、そんな気持ちになったか申しましょうか。測候所員の生活を見たからです。驚くべきほどの安月給で食費は自弁で危険手当さえなく、生命を的に一年中ここで働いている所員たちを支えているものは富士山頂で働いているという使命感なんです。これは全く二十世紀の奇蹟のようなものですよ。私はその奇蹟を、私の仕事に持ち込もうと考えたのです。ここで働けば、お前達の名は、銅銘板にきざまれて、レーダー観測塔の壁に残るぞと云ってやっているのです。初めのうちは彼らは半信半疑で聞いていましたが、今はそれを信用して働いています。彼等にやろうという気が起きたのは、このことを云い出して以来なんです。」

作業員には名誉を与えられるということだ。
果たして、今の社会で、金銭より、安楽より、名誉のために過酷な労働を選ぶ人がどれくらいいるだろう?
名誉ある仕事とは何だろう?
名誉を与えられるべき仕事に対して、世の中の人々は敬意を払っているだろうか?
測候所員の生活の部分を読みながら、ふと自衛官のことが頭に浮かんだ。彼らはろくに名誉も与えられていないのに、厳しい生活環境に身を置き、過酷な労働に従事している。二十一世紀の奇蹟である。
ともあれ、富士山レーダーの作業員たちは、幸運にも名誉を約束され、懸命に働くようになった。

人間と技術との結集により、二年かかってレーダードームが完成し、実用に向けて、電波庁からの厳格な実地検査にも合格した。関係者が涙を流すほど喜び、ホッとしているところへ、大自然からの検査官が訪れる。台風の襲来だ。大事業を成し遂げた人間達へ、奢りの気持ちを芽生えさせないための計らいのようにも感じる。

この事業を完成させた後、葛木課長、つまり新田次郎は、気象庁を退職し、執筆活動に専念することになる。この仕事に関わった人々の多くが、同じように満足感と虚脱感を抱いていたに違いない。誰にとっても、一生に一度の大仕事であっただろう。困難な仕事だというだけでなく、日本の象徴「富士山」に関わるということが、人々をここまで熱中させたのだ。

気象衛星の出現によって富士山頂気象レーダードームは引退した。現在は、富士吉田市に博物館として残っているそうだ。

Appendix

本のブログ

にほんブログ村 本ブログへ

プロフィール

milesta

Author:milesta
◇これまでに紹介した本の一覧は下の「全タイトルを表示」の文字をクリックすると、ご覧になれます。
◇コメントとTBは承認制にしました。
◇記事に関係がなかったり、このサイトにふさわしくないコメントやTBは削除することもあります。

全記事(数)表示

全タイトルを表示

最近の記事+コメント

カテゴリー表示

ブログ内検索