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『あのころはフリードリヒがいた』 ハンス・ペーター・リヒター

あのころはフリードリヒがいた (岩波少年文庫 (520))あのころはフリードリヒがいた (岩波少年文庫 (520))
(2000/06)
ハンス・ペーター・リヒター

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日本人の「ブーム好き」は最近エスカレートしているように感じる。宣伝の巧みなドーナツ屋に行列を作ったり、亡くなった途端に突然忌野清志郎ファンが増えたり、ちょっと子供っぽいけれど、別に害を及ぼすわけでもなし、まぁこれが日本の国民性なのか・・・と流してしまうこともできる。
けれども、そうした日常が、結局は政治的な態度にも結びついていて、それが国の盛衰にも関わってくるとなると、ある種の恐怖感が湧いてくる。

ことの始まりは四年前の自民党大勝。「郵政民営化」というワンフレーズが国民を動かした。
続いて「国家の品格」のブームと「美しい国」を唱えた安倍元首相の人気。
それもつかの間、マスコミや自民党内からの安倍バッシングで安倍元首相の人気が急落。
そのままマスコミがじわじわと自民党批判を続け、「政権交代」というワンフレーズ選挙に結びつき、民主党の圧勝。たった四年前に国民が支持した「郵政民営化」はあっという間に悪者だ。
こんなジェットコースターに乗っているような政治の責任の一端は、間違いなく国民にある。
印象的なフレーズやマスコミの報道に、国民の大半が感化され、一気に政治的態度を変更する。一昔前なら「転向」とか「変節」と言われた行動を、気軽にとってしまう風潮に、私は「恐怖」を感じる。
これはいわゆる「全体主義」というものではないのだろうか。

『あのころはフリードリヒがいた』はドイツの作家による自伝的児童文学である。ヒトラーの台頭と共に、近所の住民達や自分や家族がどのような行動をとるようになったかが、少年時代の体験を踏まえて書かれている。そこには、自分の考えというものをなくし、周りの「空気」や「勢い」に同調し、皆が一斉に行動することで興奮状態が生み出され、ますます勢いづいていく住民の姿が描かれている。発達する台風のように周囲をどんどん巻き込んで勢力は強大になり、ついには誰にも止められなくなってしまう。

「みんながやっているから」というだけで、理由もわからないまま行動するこのドイツの住民達と、今の日本人とどれほどの違いがあるのだろう。
私たちは、民主主義社会にいるのに、独裁者を頂いているわけではないのに、なぜもこんなに全体が一気に動いてしまうのだろう。

マスコミの多くは、日本の戦時中を全体主義だといって嫌悪していたはずだ。
マスコミの号令で右を向かせるも左を向かせるも自由自在という現在の日本社会は、全体主義ではないのだろうか。
もしも、全体主義は危険だという認識をもっているなら、耳障りの良いフレーズで国民を煽動するような報道は謹んで欲しい。政策論議とは無関係に、特定の政治家の揚げ足取りや悪い印象を植えつける報道を執拗に行うべきではない。

教育者の多くは、国民に同じ方向を向かせる戦前の教育を批判してきたはずだ。
それなら、自分自身で偏りのない正しい情報を取捨選択する技術や、物事の本質を見極める力をきちんと伸ばす教育をして欲しい。凝り固まった思想を広めることなど以ての外だ。「自由」とは、自分勝手なことでも、気ままに軽薄に生きることでもなく、自立した思考のことであると子供達に教えて欲しい。

私も含め親や祖父母は、子供や孫から「誰々ちゃんも持っているよ。」と言われて物を買い与えることをやめなければならない。「みんなと同じ」という安易な価値基準に寄りかからない人間を育てるために、心を鬼にしなければならない。もちろん自分たちも、同じような消費行動や価値判断は慎まなければならない。

こうして考えてみると、全体主義的傾向からの脱却への道のりは簡単ではないだろう。しかし今のうちならまだ間に合う。
「これは間違った方向だ。」とわかっていても、雪崩のようにそれに巻き込まれてしまう社会など、想像しただけでぞっとする。そうならないうちに、私たちは早く自立した国民の集まりにならなければいけないと思う。


※ドイツ全体主義の中で自立し続けた作家ケストナーの伝記です。 
『ケストナー―ナチスに抵抗し続けた作家』 クラウス コルドン

※自立した思考のために、一人一人がまず「閉ざされた言語空間」から抜け出さなければなりません。
『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』 江藤 淳
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『民主党解剖』 産経新聞政治部

民主党解剖 (産經新聞社の本)民主党解剖 (産經新聞社の本)
(2009/07/18)
産経新聞政治部

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昨日、駅ビルの書店で、年配のご婦人が平積みにされた本を見つめて佇んでいた。その題名を見て「その本、お薦めですよ。」と声を掛けたくなったが、日本ではそういうことをすると怪訝そうな顔をされることが経験上わかっていたのでやめておいた。
しかし家に帰ってから何となくむずむずと落ち着かない。あのご婦人は本を購入しただろうか、せめて立ち読みでも・・・。その本の題名は『民主党解剖』。
本当は自分だけで読んで、投票の参考にしようと思っていた。しかしあの書店で佇むご婦人の姿は、いよいよ投票日が近づき、「誰か参考になる本を教えて!」と言っているように思えてならなかったので、急遽ここに紹介することにした。

今回の選挙のキーワードは「政権交代」らしい。しかし、私は疑問に思っていた。政権交代は「政局」であって「政策」ではない。政権交代したら新しい与党は何をやってくれるのだろうか?私たち国民には、その方が大事なことだ。

それでは『民主党解剖』は、この政党は政権を握ったら何をしてくれるかがわかる本なのか。それが全く逆である。読んでいるうちに、この党は政権を握ったら何をしようとしているのか全くわけがわからなくなる。

この本によれば、民主党にはさまざまな政策を提案する政治家がいる。しかし、ことごとく、党内の一部グループの反対で却下されたり、支持団体の意向により口にすることもできなくなったりする。そんなことの繰り返しだ。
そういえば、ある民主党の新人候補者のHPに、当初は「憲法改正も視野に入れる。」とか「子供たちに誇りを持たせよう。」という内容が書いてあったのに、いつの間にか消えていた。
とにかく党内に、憲法改正派と護憲派、国旗掲揚・国歌斉唱の賛成派と反対派、北朝鮮に対しても制裁推進派と拉致容疑者擁護派が、混在しているのだ。党内で一致した政策が持てるわけがない。

しかしマニフェストがあるだろう?
そのマニフェストに対して、民主党の土屋敬之都議が「偽装だ!」と内部から声をあげている。重要政策をまとめた「政策集」にはあるのに、マニフェストに書かれていないことがあり、その書かれていないことは選挙で政策に掲げれば「第二社会党だ」と非難されるから表には出さないのだという。旧社会党とは対極にあるような信条を掲げる土屋都議としては、さんざん自分の考えを党内で否定されてきたのに・・・という思いもあるのだろう。
有権者に隠された民主党の本心。その「政策集」がこの『民主党解剖』の巻末に「民主党政策INDEX2008(抜粋)」として紹介されている。確かに「第二社会党だ」という印象は免れない。

民主党の表に立つのは、自民党出身の前党首や現党首、またリベラルの印象は強いが旧社会党出身ではない元厚生大臣であることが多い。それで国民は、一度くらい民主党にやらせてみよう、と政権交代を気軽に考えてしまうのだろう。
しかし、党の政策を牛耳っているのは、旧社会党の面々であることはこの「民主党政策INDEX2008(抜粋)」を見ればよくわかる。これを作った人々は、なぜ旧社会党に残り社民党設立に加わらなかったのだろう。社会党の不評判に嫌気が差して看板を換えたかっただけなのか。

民主党は、解剖すればするほど、どんなことをしてくれる政党かわからなくなってくる。それではいったい、なぜ一つの党として纏まっていられるのか。この本を読んで分析すれば、小沢氏の選挙技術や集金力、支持団体(自治労、日教組など)の票数、鳩山氏の資産など、「政権交代」のための要素がうまく集まっているからということになる。
民主党の最終目標は「国をどうするか」ではなくあくまで「政権交代」のようだ。

普段私たちは、商品を購入するときに、「シェアナンバーワンを目指します!」というキャッチコピーで銘柄を選ぶだろうか?そんなキャッチコピーがあったら、企業の勝手だ、自己満足だと、感じる人の方が多いのではないだろうか。もちろん、その商品の機能やデザインや味などが自分のニーズに合っていれば、購入に至ることもある。商品の中身を検討しないで購入することはまずない。
国政にだって税金という名のお金を払っている。政党や候補者をよく吟味し、後悔しない投票をしたいと思う。

※民主党土屋敬之都議の論文『民主政権を内部告発する!』が載っています。

『流れる星は生きている』 藤原 てい

流れる星は生きている (中公文庫BIBLIO20世紀)流れる星は生きている (中公文庫BIBLIO20世紀)
(2002/07)
藤原 てい

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この本で印象的なことを三つ挙げよと問われたら、「母は強し」「言葉の力」「かっぱおやじ」というのが私の答えだ。

観象台に勤務する夫(後に作家となる新田次郎)の赴任と共に満州に渡っていた藤原ていは、終戦直前の昭和二十年八月九日、突然追い立てられるように観象台官舎を出て逃げなければならなくなった。
なぜ?どこへ?も曖昧なまま、関東軍の家族達が移動していることから危険を察知して逃げることになった。実はその日は、ソ連が不可侵条約を破り突然参戦してきた日であったのだ。

ついに敗戦したことがわかり、男たちは保安隊に命じられ列車でどこかへ連れて行かれ、「観象台疎開団」はほぼ女子供たちだけで日本を目指さなければならなくなった。ていは六歳、三歳、生後一ヶ月の子供達を連れていた。
限られた持ち物を仲間の目からも隠し、飢えや病気と戦いながら、子供を抱えて川を渡り、子供を怒鳴りつけながら山道を歩く。子供達を守り抜いて日本まで戻らなければならないのだ。その為には、人格まで意図的に変えなければならなかったり、人を脅したり騙すことも必要になったり、時には家族内で誰を優先させるかという究極の生存競争に晒される。読みながら自分が歯を食いしばっている事に気づくことが何度もあった。中には、精神を病んで奇行を繰り返したかと思うと、ふとした拍子にぱっと正常に戻るという仲間もいた。

この想像を絶する過酷な状況で、ていが三人の子供を全て無事に連れ帰ったことは奇蹟としか思えない。
夫とは別に自分だけで子供を連れて逃げると決まったときに、

私は子供を護るために逃げるのだと、はっきりと決心がつくともう泣いていられなかった。

母親としての責任感と強い意志と母性が総動員され、この偉業は成し遂げられたに違いない。「母は強し。」
しかし、現代の私たち母親がここまでのことをできるだろうか。責任感も意志も母性も、この平和で便利な暮らしの中ではなかなか発揮する機会がなく、現代人の母の強さは退化しているかもしれない。

このていを支えていたのが、「言葉の力」だ。
日本の航空隊にいたという保安隊員が教えてくれた歌は、同じ部隊の戦死した二人の兵隊が作詞したものだった。てい達は、この三小節の悲しいメロデイの歌を覚え、繰り返し歌った。「流れる星は生きている」という表題にもなっている歌詞が、「夫は生きている」という希望に繋がり、絶望感からていを救った。

また、同じ疎開団のくに子さんの詠んだ短歌は、悲しくせつないものだったが、人々は何度も聞きたがった。涙を流しながら詠い、涙を流しながら聞いた。悲しいという感情も生きている実感に繋がるものだ。泣きながら、心は潤いを得たのではないだろうか。

言葉は精神に繋がり、精神は生に繋がる。今の日本では、言葉がどんどん簡略化され、記号のようになっていっている気がするが、言葉の力というものを再認識しなければならないと感じた。

「かっぱおやじ」は、ていによるその命名もすばらしいが、存在も一際印象的だ。
貧乏な「観象台疎開団」はお金持ちの「宮本団」にくっついて行くしかないと、ていは考える。その宮本団で、ていたちを貧乏団だと迷惑がり、徹底的に退けようとしたのが、かっぱおやじである。
かっぱおやじとていの喧嘩漫才のようなやりとりには思わず笑ってしまうが、何度となく騙され、ついにはていの長男が山中でかっぱおやじに置き去りにされ、ていは恨みの骨頂だったであろう。

紆余曲折を経て、日本上陸を果たした日、ていはかっぱおやじ率いる宮本団解散の場面に出くわす。ある意味、この本のクライマックスともいえ、感動を呼び起こす場面なので、ここに引用をすることは避けたいが、ていはここで宮本団の結束とかっぱおやじの統率力を大きく評価し、「私の完全な敗北」とまで書いている。自分の子供を死に追いやろうとした人を相手にである。かっぱおやじは

「自分の団のことをまず考えないで、人の団のことなんか考えられますか」

といい放ち、それを貫くために、ていの乞う手助けを斥け続けてきた。それが団のリーダーとしての使命だからである。生きるか死ぬかの時には、まず自分の下にいる者たちを守り抜くことを考え、他人を慮る余裕などない。

このかっぱおやじの逸話も、私は現代の日本と引き比べてしまう。
まもなく私たちの国のリーダーになるかもしれないという人の発言は、かっぱおやじの名言とリーダーシップの前では、「甘っちょろい」としか言いようがない。
「友愛」?
「日本列島は日本人だけの所有物ではない」?
「外国人に参政権を」?

今の日本国内だけ見ていれば他国を慮る余裕があるだろう。しかし、周りには自分たちの国の利益しか考えず、隙あらば領土を拡張しよう、溢れ出る失業者の行き先を確保しよう、と必死になっている国々があるのだ。
荒唐無稽な話ではない。
私がオーストラリアに住んでいたときに、在豪の中国人外交官の亡命によって、オーストラリアには千人以上の中国人スパイが送り込まれており、民間人として暮らしていることが明らかになった。その後、オーストラリアでは親中派のラッド氏が首相に選ばれた。移民地区に新たな選挙区ができたのも勝因の一つだと報道されていた。最近になってオーストラリアは、慌てて親中路線に修正を加えている。もう少しで自国の産業が中国に乗っ取られると気づいたからだ。中国の隣国であり、豊かな日本に、同様のスパイが送り込まれていない方がおかしい。また、中国資本による日本の山林の買い占めが始まっているとの報道もあった。
韓国は、竹島はもう手中に納めたと思っているのか、今度は対馬も韓国のものだと言う人も出てきた。
ロシアは北方領土返還問題について、もうこれ以上話し合いさえしたくないという。
親日的だといわれている台湾でさえ、尖閣諸島の領有権では一歩も譲らない。
このような国々を相手に「日本列島は日本人だけのものではない」などと言ってしまって良いのだろうか?
日本の領土を奪われた時、私たち母親はていのように子供達を連れてどこかへ逃げるような事態に耐えられるだろうか?
そんな修羅場になる前に、自分の国のリーダーには、かっぱおやじのように

「自分の国のことをまず考えないで、人の国の事なんか考えられますか」

と言ってほしい。日本に限らず、どこの国でも、国政に携わる人は本来そう考えるものではないだろうか。

夏になると「あの戦争を忘れてはならない」という言葉をよく聞くが、悲惨な被害のことだけでなく、その時に生き延びた人たちの生き延びることができた理由を考えることも大事ではないかと思う。

Appendix

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