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『子どもにスポーツをさせるな』 小林 信也

子どもにスポーツをさせるな (中公新書ラクレ)子どもにスポーツをさせるな (中公新書ラクレ)
(2009/06)
小林 信也

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国際水泳連盟(FINA)は、レースが終わってから水着が認可できるものかを審査し、その結果世界記録を上回っていた日本選手のタイムを公認しないことを決定したという。練習を積み全力で泳いだ後で、記録を反故にされた選手の気持ちを思うと、気の毒で、悔しくて、新聞記事を読みながら涙ぐんでしまった。
FINAの公式スポンサーであるメーカーの水着だけが早々と認可されていて怪しいと、北京オリンピックの頃から言われていた。
一方、まだ認可されていない水着でレースに出ても良いと判断した日本水泳連盟も浅はかではなかったか。
水着メーカーは開発競争を急ぎすぎてはいなかったか。
そもそも、水着に勝敗や記録を左右されるのは、競泳本来の姿だろうか?

選手ではなく周りの「大人たち」の都合で、スポーツがとんでもない方向に向かっている。スポーツライターの小林信也氏は、このとんでもない方向性が、子供達からスポーツ本来の楽しみや自らを人間的に成長させる役割を奪っていることを危惧している。スポーツを本当に愛する小林氏は、スポーツの主体は企業(ビジネス)でも記録でも話題性でもなく人間であるという視点をもっていて、スポーツ関係者にはぜひこの本を読んで欲しいと思う。

ビジネスのために間違った情報を流しても平気なスポーツ関連メーカー、話題性ばかりを重視して選手の評価をミスリードするマスコミ、そして子供達に最も身近な指導者や親たちの見栄や妄想。それらが、スポーツの在り方をゆがめているという。

いまスポーツ界は、「勝てばいい」「儲かればいい」「目立てばいい」、そんな価値観に支配され、毒されてしまっている。

その価値観が、子供達の健全な成長に悪影響を与えているのだ。

例えば、ジュニア・ゴルフ界では、スコアが悪いと親に厳しく叱られるからと、スコアを改竄したりボールをこっそり動かしてしまう子供達がいるという。

「あるがまま」でプレーするのがゴルフの基本だ。それでこそ、ゴルファーは理想通りには行かない現実を学び、自分の弱さ・未熟さを痛切に味わう。

そして「自分との戦い」に打ち勝つことがスポーツの原点ではないのかと小林氏は嘆く。

サッカー少年の親たちは子供に「将来Jリーガーになれるかもしれない。」という夢を託す。

そんな幻想が、サッカー・スクールに子どもを通わせる親たちの心を大きく占めるようになった。練習や試合で一喜一憂する親たち、子どもたちの喜び・落胆を左右する基準は、その日のプレーの達成感、充実感だけでなく、「プロになれるかなれないか」のボーダーラインに照らして揺れ動いている。

全力を尽くして試合を終えても、その日のプレーの達成感・充実感だけではだめなのだ。それは通過点に過ぎず、子供達は「まだまだ」「もっとガンバレ」と言われ続けるのである。毎年Jリーガーになれる人数は東大合格者の数より少ないというのに・・・。

本の後半では、「勝てばいい」「儲かればいい」「目立てばいい」というのとは一線を画したスポーツ関係者のことを紹介し、あるべきスポーツの姿を探ろうとしている。素晴らしい指導者や競技のことが書かれていて、小林氏が本当は「子どもにスポーツをさせるな」などと言いたくないのだということがよくわかる。
小林氏のスポーツに対する考え方には賛同できることがたくさんあるのだが、とくに私の琴線に触れたのは、次の一文だ。

スポーツの感動は、小学校のグランドにもある。

ふと自分自身がスポーツを心から楽しんでいたあの頃を思い出した。
ドッヂボールでスポーツ万能の男の子が投げた速い球をキャッチした瞬間、鉄棒で新しい技をできるようになった瞬間。小さな、しかし何にも代え難い感動が走った。
中学や高校の部活では、「あっ、今上手くなっている!」「きのうより筋力がついている!」、そんな小さな喜びが、辛い練習にも耐える力となっていた。

子供達から「自分との戦い」を奪ってはならない。「達成感」を奪ってはならない。子供のスポーツに関わる人たちは、そのことを忘れないでほしい。
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『モモ』 ミヒャエル・エンデ

モモ (岩波少年文庫(127))モモ (岩波少年文庫(127))
(2005/06/16)
ミヒャエル・エンデ

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「『モモ』は好き?」
「『モモ』、お薦めよ。」
「子供の頃読んで感銘を受けた本は『モモ』なんだ。」
私が児童書が好きだと言うと、実に多くの人が『モモ』の名を出してくる。しかし私は『モモ』をずっと避けてきていた。同じ作者による『ネバーエンディングストーリー』の映画をテレビでチラリと見て以来、
「ああ、この非現実的な世界にはついていけない。あまりにファンタジー過ぎる!」
と、ミヒャエル・エンデ作品には近づかないようにしてきたのだ。

ところが、つい最近になってなぜか『モモ』が気になりだしてきた。
『モモ』を薦めてくれた人たちを思い出すと、誰も考えつかないような事業を興して評判になり心底楽しそうに仕事をしていたり、子育てを終えボランティアに生き甲斐を感じていたり、仕事以外の趣味をたくさん持っていたり、活き活きと人生を歩んでいる人ばかりなのだ。
なぜだろう?
そう思って本屋さんでパラパラと『モモ』のページを繰っていると、こんな文章が目に飛び込んできた。

きみの生活をゆたかにするために-
時間を節約しよう!

 けれども、現実はこれとはまるっきりちがいました。たしかに時間貯蓄家たちは、あの円形劇場あとのちかくに住む人たちより、いい服装はしていました。お金もよけいにかせぎましたし、つかうのもよけいです。けれども、ふきげんな、くたびれた、おこりっぽい顔をして、とげとげしい目つきでした。


これはファンタジーなんかじゃない、まるっきり現実だ!と感じた私は、即座に『モモ』を読むことにした。

時間どろぼうである「灰色の男たち」の陰謀によって、時間を節約し貯蓄にまわそうとする人々が増えてくる。
大人は忙しく働きづめになり、どんどん不機嫌になる。そして子供の相手などをしていられなくなる。子供にはおもちゃを買い与えて、それにお守りをしてもらえばいいのだ。それこそ時間の節約になる。お金はいっぱいあるから、おもちゃは自動で動く高価なものを買ってやれる。こんな複雑なおもちゃで遊べる子供達はさぞ幸せだろう。

本当に子供たちは幸せになったのだろうか?先ほどの言葉を借りれば、「現実はこれとはまるっきりちがいました。」
一つの遊び方しかできない複雑なおもちゃには、すぐに飽きてしまう。自動で向こうから働きかけてくれるおもちゃは、子供から創造力を奪う。おこづかいをたくさんもらったり高価なものを次々と買ってもらっている子供はこう言う。

「うちの親はぼくをだいじに思ってるよ。でも、いそがしいんだ、どうしようもないじゃないか。ひまがないんだもの。そのかわりに、トランジスター・ラジオまで買ってくれたんだよ。とっても高いんだぜ。ぼくをだいじに思っている証拠じゃないか-それとも、ちがうかい?」

そして、とうとう泣き出してしまう。

 ほかの子どもたちも、なん人かは身につまされたようにその子をながめ、なん人かは地面に目をおとしました。その子の気もちがよくわかったのです。ほんとうは、みんなとおなじように泣きたい気もちでした。だれもが、じぶんが見はなされた子どもだと感じていたのです。

この子供たちの悲しみを理解する浮浪児モモは、「灰色の男たち」に疎まれ、戦いが始まる。モモの人の話を黙ってじっくりと聞いてやるという姿勢が、時間節約の邪魔になるからだ。モモの親友たちも時間節約の社会に巻き込まれ、時間を司る神様のようなおじいさんも登場し、ファンタジーが展開される。しかし、私はもう「非現実的な世界だ!」とは思わなくなった。

作者のミヒャエル・エンデは、冒頭で、モモが住むことになる円形劇場の説明に続いて、こう書いている。

 そして、舞台のうえで演じられる悲痛なできごとや、こっけいな事件に聞き入っていると、ふしぎなことに、ただの芝居にすぎない舞台上の人生のほうが、じぶんたちの日常の生活よりも真実にちかいのではないかと思えてくるのです。みんなは、このもうひとつの現実に耳をかたむけることを、こよなく愛していました。

私が、このもうひとつの現実に耳をかたむけたくなったのは、今だからかもしれない。
ファンタジーという舞台で真実が演じられているなどということは、知らなかった。食わず嫌いだったファンタジーを、子供に付き合って読むようになってから、そのことに気づいたのだ。

それに、子供の頃から既に時間貯蓄型の都市-東京に住んでいた私は、時間の節約が勤勉、勤労と結びつき、良いことだとずっと思っていた。
しかし、自分が子供を育ててみると、時間の節約や効率によって失われるものも見えてくる。一見無駄に見える時間が、後になって実を結ぶとてもたいせつな時間となる場合があるとわかってくる。子供と過ごす時間はお金には換えられないと思う瞬間が何度もある。

また世界的な金融危機によって、これまでの経済至上主義を見直そうという考え方も出てきており、こうした点でも、今読むことに意味があったように思う。
「経済とはお金を廻すこと。さあ、どんどん稼いで、どんどん使おう!」と説くエコノミストが、「灰色の男」に見えてくる。
一方ミヒャエル・エンデは、観光ガイドをしているモモの友達ジジの作り話という形で、共産主義についてもユーモアたっぷりに痛烈な批判をしている。この「〈赤い王〉とあだ名された世にも残虐な暴君、マルクセンティウス・コスムス」の話は、子供が読めば荒唐無稽な笑い話、大人が読めば作り話の衣を纏った真実、という秀逸な出来になっている。

人間はどうしたら本当に心から豊かな暮らしをできるのか、これからも私たちは考えて続けていかなければならない。そしてそれを考えるには、モモやモモの友達のような考える力と考える時間が必要なのである。

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