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『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』 水村 美苗

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
(2008/11/05)
水村 美苗

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最近評判のこの本を本屋さんでみつけた。それまでに読んだ書評から難しい言語学の本を想像しており、恐る恐る手にとって最初の数行を読む。

 九月のアイオワ・シティの朝はかなり冷え込む。
 ホテルの外に出れば、湯気の立つスターバックスのコーヒーを片手に、背中をちぢめてマイクロバスの到着を待つ作家たちの姿がちらほらとあった。


えっ?この本はエッセイなんだっけ?しかも「スターバックス」だって?ずいぶん今風なエッセイだ。と意外に思いながら、著者の水村美苗氏も参加した、世界各国から小説家たちが集まるあるプログラムの様子に引き込まれる。
西洋人とアジア人が自然と分かれて二台のバスに乗り込んでゆく。アジア人たちのバスには英会話があまり得意でない小説家たちもたくさんいる。彼らのほとんどは世界の「普遍語」である英語でなく、「自分たちの言葉」で小説を書いているのだ。水島氏は感慨にふける。

人はなんと色んなところで書いているのだろう・・・・・・。
地球のありとあらゆるところで人が書いている。


そんな経験から「普遍語」と「自分たちの言葉」に関する考察が始まる。

第一章のエッセイ風の文章のところから、これは研究室のなかの言語学の話ではないし、英語か日本語かという二者択一の単純な話ではないと感じていた。それが単純でないどころか、多次元の話になってくる。

世界には、英語以外を母語とした国々がある。しかも、違う母語をもつ他国人同士がロシア語やフランス語など英語以外の共通の言葉で話すこともある。共通の言葉の歴史を考えてみれば、学術の読み書きに使う言語はその昔ラテン語だった。ラテン語で読み書きしていた人を挙げれば、コペルニクス(ポーランド)、ガリレオ(イタリア)、ケプラー(ドイツ)、ニュートン(イギリス)・・・。つまり読み書きの言葉は時代や地域を超越した「文語」であり、話し言葉とは違っていた。「普遍語」と「国語」と「現地語」の違いは何か。日本での「国語」の成り立ちはどういうものだったか。インターネットの出現による普遍語としての英語の確実な定着。その時に供えて、日本の教育はどうすべきか。
場所を軸に、時間を軸に、次から次へと、言語に関する定義や歴史や課題が出てくるが、難解でも退屈でもなく、驚きや発見がいっぱいで、どきどきしながら読み進む。

なにより心を打たれたのは、水村氏の日本語や日本文学に対する愛情とその愛するものが消えゆくことへの憂いだ。
水村氏は、子供の頃から二十年もアメリカに暮らし、その間日本文学を読み耽り、大学ではフランス文学を専攻している。その言語の達人である水村氏(ご本人は英語に背を向けたと謙遜されているが)は、日本語の書き言葉は世界に類を見ないほどおもしろく、高みに達した言葉であるという。その例として、とてもわかりやすいものが挙げられていたのでここに紹介しよう。

 ふらんすへ行きたしと思へども
 ふらんすはあまりに遠し
 せめては新しき背広をきて
 きままなる旅にいでてみん。

という例の萩原朔太郎の詩も、最初の二行を

 仏蘭西へ行きたしと思へども
 仏蘭西はあまりに遠し

に変えてしまうと、朔太郎の詩のなよなよと頼りなげな詩情が消えてしまう。

 フランスへ行きたしと思へども
 フランスはあまりに遠し

となると、あたりまえの心情をあたりまえに訴えているだけになってしまう。だが、右のような差は、日本語を知らない人にはわかりえない。

 蛇足だが、この詩を口語体にして

 フランスへ行きたいと思うが
 フランスはあまりに遠い
 せめては新しい背広をきて
 きままな旅にでてみよう

に変えてしまったら、JRの広告以下である。


この例に「なるほど」と思われる方は多いのではないだろうか。
しかしインターネットの時代に突入した今、世界の書き言葉は普遍語である英語に駆逐されてしまう可能性があり、このような素晴らしい日本語を護ろうという情熱がなければ、日本語は亡んでしまうと、水村氏は危惧する。そして言語が亡びるということは、文化が亡びるということなのだ。

一千年前の紫式部のころから脈々と続く日本文学に表れる感性を護り続けるには、まずは日本近代文学を読み継ぐことに主眼を置くべきだという。私のブログには「古文」や「文語」は外国語みたいだというコメントが時折ある。そのような違和感をなくすには、まずは日本近代文学から、というのは現実的で着実な方法だと私も思う。

私達が子供の頃はまだ、教科書には近代文学の代表作がたくさん載っていたし、音楽の授業でも文語体の唱歌を教わった。父の蔵書や叔母から譲り受けた本の中には、旧仮名遣いの小説もあり、そうした本を違いを意識することなく普通に読んでいた。それが今、辛うじて文語文も楽しんで読めることに繋がっていると思う。

今は、生徒に人気がないからと日本近代文学は教科書や課題図書や受験問題から消え、当世の人気作家の軽くて読みやすい作品や、作家でも何でもない有名人の文章が採り上げられることが増えている。

しかし、水村氏の言うように、

教育とは、さらには、市場が与えないものを与えることである。

人気で教材を選んでいたら、つまり教育を市場原理に委ねてしまったら、過去の言葉で書かれた作品は誰にも読まれなくなってしまう。何という勿体ないことだろう。
日本の国語教育に必要なのは、「千年もの日本文学の蓄積をむざむざと捨て去ることはしない!」という強い意志なのである。

そして、それ以前に、普遍語としてますます重要度を増す英語を、日本の教育のなかで、どのような位置づけにするのかをきちんと決めるべきだというのが水村氏の主張だ。

このように、日本人の言語教育について、世界の情勢を見ながら、言語を巡る歴史を鑑みながら、国の政策として誰か考えている人はいるのだろうか。最近導入が決まった小学校の英語教育一つとっても、そこに何かしらの教育哲学があるとは到底思えず、世論に迎合しているようにしかみえない。

この本に対する評判が高いのは、たいへん重要な、しかしこれまであまり真剣に論議されていなかった問題について、水村氏が徹底して考察しているからではないだろうか。しかも本業が小説家であるからか、心に響き、魂に訴えかけるような文章にも出会える。著者渾身のパリでの講演の原稿などは、当日の熱気が伝わってくるような感動的な内容だ。

題名をご覧になって、堅苦しい本ではないかと尻込みされている方も、まず手にとって、最初の章だけでも読んでみていただきたいと思う。


※本書を読んで、「英語にだけは翻訳できない」というこの小説も読んでみたくなりました。

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