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『ぼくの・稲荷山戦記』 たつみや 章・作/林 静一・絵

ぼくの・稲荷山戦記ぼくの・稲荷山戦記
(1992/07)
林 静一、たつみや 章 他

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外国に暮らしていると、「日本の宗教は何ですか?」と聞かれることがある。仏教と神道の二つを同時に信仰している人が多いと答え、あまり知られていない神道についてのちょっとした解説を付け加える。すると、神道のことを初めて聞く異教徒、それも一神教の信者までもが「それはすばらしい考え方だ。」「神道は私たちの考えに近い。」などと興味を示すことが多い。神道については、専門家に教えていただいたり本で読んだことを私流に解釈し、次のように説明している。

一、世の中には人間の力ではどうすることもできないこと・・・自然の恵みや天災、宇宙の法則などがあり、そうした神々の領域のものへの畏敬や感謝の念を忘れない。身近なところでも、万物に神が宿ると考えられていて、どんなものでも大切にする。
二、私たちの生きているこの世は、遠い先祖の時代から連綿と続きここに至っている。先祖に感謝し、私たちもより良い社会を子孫に残していかなければならない。

オーストラリアの学校では「キリスト教」の授業があるが、日本では「神道」について学ぶ機会はない。(なぜそういうことになったのかはこちら→『閉ざされた言語空間-占領軍の検閲と戦後日本』)だからだろうか、世界にも通用するこれら神道の考えを意識して暮らしている日本人は少ないような気がする。
意識するまでもなく、日本人の感覚や慣習の中に、この考え方が生きているということかもしれないが、近年では、潜在意識の中からも、これらの考えが消えつつあるのではないかと思うことが多々ある。
他国に比べて物質的に豊かであり、技術大国といわれる日本では、自然から頂いたものを有り難く頂戴するということを忘れて使い捨てや無駄遣いを平気でするようになり、また技術力で何でもできると人間の力を過信しているのではないだろうか。

『ぼくの・稲荷山戦記』はとても愉快なファンタジー小説だが、楽しく読んでいるうちに、
日本が昔から大事にしてきたものは何か。
今の私たちはその大事なことを忘れていないだろうか。
それに気づいた人は次の人にバトンを渡す義務がある。
と気づかされる。まるで神様からのお告げのように。

稲荷山では、開発が稲荷神社の神様を痛めつけていた。稲荷山を守るため、お使いのキツネが古風な美青年「守山さん」に姿を変えてやって来て、代々巫女をやっている守の家に下宿することになった。開発阻止の戦いの中で、守は、自然と人間の共生、子供の自分も家系や歴史の一部を為していて自分のしたことは未来に影響を与えることなどを学んでいく。・・・と書くと堅苦しい感じがするが、守山さんは疲れてぐったりすると油揚げを食べて元気を出したり、それを売る豆腐屋のおばさんは守山さんファンだったりして、とぼけた感じの雰囲気で話が進んでいく。

自然保護活動によくある「大企業・資本家の傲慢を許すまじ」や「自然は絶対に守ってやらねばならぬもの」というお題目は、実はあまり好きではない。前者は自然保護が階級闘争の種に使われている気がするし、後者は自然と人間の共生ということを無視した非現実的な考えのように感じるからだ。
この物語では、守たちは大企業と戦いはするが、その企業の中にいる人々にも神への畏敬の念や葛藤がある。また稲荷山の保護が完全に成功するわけではない。かといって救いのない結末でもない。それが自然の偉大さであり、人間の力の及ばぬ不思議さである。そこのところが、神業の如くうまく書かれていて、あっぱれである。

※本職の神主さんによるブログ“田舎の神主の学舎”に『環境問題と神道文化』という記事がありますので、そちらも是非ともご覧下さい。

※文庫版も出ているようです。↓

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『いちご』 倉橋 燿子・作/さべあのま・絵

いちご (講談社青い鳥文庫―from ichigo)いちご (講談社青い鳥文庫―from ichigo)
(1994/10)
倉橋 燿子、さべあのま 他

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子供の本棚から取り出して何気なく読み始めたら、夢中になってしまい、掃除中だったことも忘れて『いちご』第一巻を読み終えてしまった。
この本も作者も全く知らなかったので、インターネットで調べてみると、小学校高学年くらいから大人まで、「いちごと自分が重なって涙を流しながら読んだ。」「勇気をもらった。」「いちごみたいな生活をしてみたい。」などと、読んだ人にはさまざまな感銘を与えている本であることがわかった。

いちごは、アトピーに悩む小学生の女の子。病状の悪化を心配した両親は、東京から山奥への移住を決意する。通学は徒歩一時間、通学途中の怖い野良犬、テレビもない退屈な生活、そしていじめ・・・。そこへ、動植物と話ができるという光がやってきて、いちごは心身共に元気になっていく。

読者は、いちごの悩みに共感しながら、一緒に怒り、泣き、笑い、いちごの成長を喜び、そこから自分も勇気をもらえる。特に小学生や中学生は、自分がいちごになった気持ちで読めるのではないかと思う。
いちごの両親もそうなのだが、大人が「そのうち何とかなる 。」とか「たいしたことじゃない。」と軽く考えてしまうことに、子供は深く傷ついたり悩んだりしている。その大人と子供の感性の違いがよく捉えられている。

また、都会の人から見たら羨ましいような田舎暮らしにも大変なことがあるということを踏まえ、その上で、都会の便利で慌ただしい生活でいいのか、という投げかけもしている。作者は、「何を大切にして生きるか」が人間の内面に与える影響を伝えようとしているのだ。

 いちごは、山にきてから、ずいぶんいろいろなことを考えるようになっていました。学校のこと、光のこと、時間のこと、生き物たちのこと、自分のアトピーのこと、おとなたちのこと・・・。
 東京にいたころは、こんなにも考えることはなかったように思います。なにもかもがあたりまえのように日々はすぎていきました。
 アトピーをからかわれて悲しい思いをしたときだって、テレビを見ているとわすれることができました。いちごは、テレビのアニメとお笑い番組が大好きでしたから、テレビを見る時間がずいぶん多かったのです。
 いろいろなことを考えるようになってみると、自分のまわりには、わからないことやふしぎなことが、ほんとうにたくさんありました。
 あたりまえのことなんて、なにひとつなかったのです。
 山にきてから、もうず一ヶ月。それだけの日々で、こんなにも考えるようになったのですから、これからはもっといろんなことを考えるのではないかと思います。
 いちごは自分の頭がパンクしてしまうのではないかと、すこし不安になりました。けれど、考えることは、なぞときみたいな気もして、やめられないとも思いました。


小学生のうちから、考える楽しさに気づいたいちごは、なんて恵まれているのだろう。いちごは悩んだり苦しんだりしているけれど、他の子供にはできない貴重な経験を積んでいる。
そして、ある時、誰からかは秘密にしておくが、こんな言葉ももらっている。

楽しいことは、つらいことや悲しいことも体験しなくちゃ、ほんとうには手に入れられないんだよ。楽しいことばかりしていると、それがほんとうに楽しいかどうかもわからなくなってしまうんだ。

子供に限らず、そのことがわかっているかどうかで、困難なことに遭遇したときの心持ち、人生の切り開き方が違ってくる。瞬間だけ見れば「かわいそう」なことが、生きる「糧」になるのだ。

私が取り上げた部分はやや説教臭いが、内容は「恋のどきどき」などという章もあって堅苦しくなく、物語のテンポもよく、一気に読める。設定や主人公の個性は違うが、『赤毛のアン』を思い起こさせる、さわやかで健全な、女の子の成長物語である。

『ほおずきちょうちん』 竹内 もと代・作/こみねゆら・絵

ほおずきちょうちん (新・わくわく読み物コレクション 2)ほおずきちょうちん (新・わくわく読み物コレクション 2)
(2007/07)
竹内 もと代

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表紙に一目惚れしたこの本。
「ほおずき」「ちょうちん」という何だか懐かしい響きと、こみねゆらさんの大人っぽい挿絵が、とても似合っている。
ほおずき市にいる子供は、アニメっぽい大きな瞳や、今風の洋服や、キラキラとはじけるような笑顔なんかも似合わない。地味で、穏やかで、ちょっと考え深そうな子供・・・ほおずき市に行くのはそんな子だ、という勝手な想像そのままの絵は、私に向かって「いいお話なのよ。」と囁いていているようだった。

物語の筋をいえば、亡くなった大おばあちゃんが幽霊のように毎日出没したり、大おばあちゃんの曾孫ゆい子が友達にからかわれて悲しい思いをしたり、ゆい子の親友が入院したり・・・事件続発というところなのだが、そんな事件とはちぐはぐなくらいゆったりとほんわかとした雰囲気をたたえながらお話が進んでいくのはなぜだろう。物語の中心にゆい子の家族の絆がどっしりと据えられている安心感からだろうか。

「大おばあちゃんが未だに姿を現すほど心を残していったことはいったい何なのか。」ゆい子の家族は謎を探るために、皆で頭を付き合わせ、協力して真相究明に当たる。
心残りは一人息子である自分の健康であったのではないかと突然ウォーキングを始めたおじいちゃん、大おばあちゃんを幽霊扱いする同級生に怒るゆい子、どちらも大おばあちゃんのことが大好きだったのだろう。

大おばあちゃんにとってのお嫁さんであるおばあちゃんも家族思いで、その上しっかり者だ。誰よりも先に大おばあちゃんの心残りを見つけてあげようと動き始めていたし、ゆい子の悩みには適切なアドバイスをしたり、元気の出る飲み物を作って勇気づけてくれる。

徐々にわかってくる大おばあちゃんのロマンスは、背景に戦争やら何やらがあって悲しいはずだけれど、なぜか微笑ましい。ゆい子の友情やロマンスのかけらは、小学生らしく、やはり微笑ましい。
ゆい子の家族が皆、いつも穏やかな笑みを絶やさない人たちで、家族や親しい人たちの事を気遣っているということが、作品全体を覆い、温かい物語になっている。表紙から抱いた印象通りの本であった。

私はこの本を、たいへん忙しくしている真っ最中に読んだ。忙しいのに読書なんて・・・と思われるかもしれないが、私にとっては、こんな時ほど読書が大切。いつもせき立てられて心がかさかさとして家族に対してもとげとげとした物言いをしていたような日常が、急にゆったりとして、心も潤い、家族にも柔らかく接することができるようになった。たった一冊の児童書なのに・・・。だから読書はやめられない。

『ダライ・ラマ平和を語る』 ルイーゼ・リンザー

ダライ・ラマ平和を語るダライ・ラマ平和を語る
(2000/04)
ルイーゼ リンザー

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著者のルイーゼ・リンザーは、ナチスに抵抗して死刑判決を受けたことのあるドイツの女流作家。カトリック信者であると共に、文中からは社会主義、共産主義へ幾ばくかの期待を抱いている人物であることがわかる。そのルイーゼ・リンザーが、一週間にわたってダライ・ラマ14世と対話をした記録が本書である。

著者自身は、ダライ・ラマ14世とは前世でも関わりがあったのではないかと書いているほど、ダライ・ラマに惹きつけられ共感を覚えている様子だが、私にはむしろ、宗教も思想もダライ・ラマとは全く異なる立場であることが、対話の内容を興味深いものにしていると感じられた。

例えば、著者は共産主義に関して同情的なニュアンスを込めてこう質問する。

私の質問-当初の理念を実現するために十分な時間を共産主義に与えなかっただけなのではないでしょうか。共産主義を野蛮で闘争的にさせたのは、西側諸国のほとんど全体の抵抗だったのではないでしょうか?イエスという平和創造者の意志に反してキリスト教徒に武器を取らせたのは、「異教的」ローマ人によって奴隷化されていた地中海世界の抵抗だったのではないでしょうか?世界の何ものも不変のままではありません。中国の共産主義も変化することでしょう。キリスト教も変化しつつあります。チベットも変化するのでしょうか?

それに対する答えは、驚くほどキッパリとしている。

ダライ・ラマ-確実に変化します。しかし、中国人の圧倒的な圧力を受けても、チベットは共産主義にはなりません。仏教は個々人を尊重します。マルクス主義があまりに権威的であるのは、チベット人にとってばかりではありません。マルクス主義は、すべての人間の基本的な権利を擁護する、と主張していますが、その反対のことをやっています。人間から、自分の頭で考えるという基本的な権利を奪っているのです。

「個々人を尊重します。」という仏教の基本的な考えとマルクス主義とは相容れないことを断言しているのだ。前回紹介した『思いやり』という本の中で、ダライ・ラマは「絶対的なものなど存在しない」「違う考えを受け入れる」と語っているが、それもマルクス主義への批判を込めていたのかもしれない。また深読みに過ぎるかもしれないが、一神教のことも念頭に置いているのではないか、とも感じた。世界の紛争は、マルクス主義か一神教のどちらかが絡んでいることが多く、そして、どちらも絶対的なものの存在に肯定的であるからだ。

ルイーゼ・リンザーは、この対話の目的を「具体的・政治的な会話をするため」だとしている。そのため、さまざまな具体的・政治的な質問を繰り出し、ダライ・ラマから興味深い答えを引き出している。

我が国の政府はあまりはっきりと言うことのない国連の民主性への疑問も、次のように単刀直入に語っている。

そこには拒否権の問題があります。五つの国がいつでも優遇されています。五大国です。国連が一つの決議を行おうとすると、そのためには三分の二以上の多数の賛成、つまり約一五〇の加盟国のイエスかノーを必要とします。そのような多数が形成されないと、大国の拒否権に対しては何もすることができません。これではどこに民主主義があるというのでしょうか?

チベットへの弾圧を国連が解決してくれることは全く期待できない。弾圧している国が拒否権を持っているのだから。

ダライ・ラマ14世は、このように現代社会を洞察し分析する政治家としての目を持っている。では次のような挑発的な(?)質問には、どのように答えるのだろうか。

 中国人は彼と彼の民族を追放したのではなかったか?彼らは彼女たちを、尼僧までをも強姦し、子供たちを殺さなかったか?彼らは非常に古い仏教の礼拝所を破壊しなかったか?彼らはたえず脅かす危険ではないのか?彼らは憎むべき存在ではないのか?いいえ、彼らもまた私たちと同じように心の中に仏性を持っているのです、とダライ・ラマは言います。
 しかし、中国人側ではなぜチベット人を憎むのでしょう?
 彼らは私たちを憎んでなどいません。彼らは指導者達の煽動的なプロパガンダに踊らされているだけです。
それでは、これらの指導者は憎むべき存在ですか?
 彼らもそうではありません。彼らも仏性を持っているからです。
 しかし、彼らを憎まないということは、人間には無理なことです。誰がそんなことをできますか?
 誰でもできます!自他平等視の秘密を知る者は誰でもできます。
 どうやって?
 敵の立場に自分を置いてごらんなさい。私たちの場合は中国人の立場です。彼らは本当に私たちチベット人を害そうとしているのでしょうか?もともと彼らは、自分たち自身の民族を豊かにすることによって、自民族に善を施そうとしたのです。そして、チベットの僧院封建主義に対する闘争を通じて東洋的世界を共産主義に変えることによって、政治的にポジティブな影響をつくりだそうとしたのです。彼らの動機を理解すれば、彼らを憎むことはできませんし、彼らの暴力行為に暴力行為で応えることはできません。暴力に対し暴力で応える者は、世界の中に暴力の連鎖を存続させます。それでは決して平和は生まれません。しかし、いかなる復讐もいかなる暴力も断念する者は、新たな世界、平和の世界をつくり出すのです。ただ自他平等視によってのみ私たちは慈悲の心に到達し、ただ慈悲心によってのみ平和へといたるのです。


ここでの答えは、完全にチベット仏教の法皇としてのものである。世界情勢をどのように分析していても、その行動規範は仏教に基づくというのが、ダライ・ラマ14世の外交姿勢なのだろう。チベット仏教の頂点に立つ立場として、仏教の教えに反する行動は起こせない。自らが仏教の理想像となることで、チベットの求心力になり、チベットの団結を促し、チベットの消滅を防いでいるのではないだろうか。
著者の言うように、

仏教の導入以来、チベットでは世俗的・政治的指導性と宗教的最高指導性は、いつの時もただ一人の男性の手にあり、それがダライ・ラマだったのです。

というダライ・ラマの役割は、独立を保っていた時にはごく自然に何の問題もなく果たされていたのだろうが、異なる考えをもつ他国に翻弄される今日では、高度な指導性が求められる。15才の時からこの最高指導者の役割を果たしてきたダライ・ラマ14世を、著者は「どれほど多面的で多彩であるか」と表現する。
ジャーナリストの記事とは違って、全般的に構成や文面にややわかりにくいところがあるが、多面的で多彩なダライ・ラマの魅力がよくわかる内容となっている。

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