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『新編 日本の面影』 ラフカディオ-ハーン・作/池田 雅之・訳

新編 日本の面影 (角川ソフィア文庫) 新編 日本の面影 (角川ソフィア文庫)
ラフカディオ ハーン (2000/09)
角川書店
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日頃外国にいて、日本からのニュースなどを聞くにつけ、日本はどんなつまらない国になってしまったのかと、とても心配だった。
実際に帰ってみると、日本の良さを再確認することも多く、楽しい日々を過ごせた。しかし、これには少しからくりがあって、「昔の日本」を感じられるような場所ばかりを選んで訪れていたからかもしれない。

その最たるところが出雲であった。昔も昔、神話の世界である。
『出雲大社』は大国主命が国譲りをした後、隠居住まいをされたお宮である。素戔嗚尊がヤマタノオロチから救った稲田姫と共に新居を建てられた場所『八重垣神社』。日本最古の大社造りである『神魂神社』にはイザナミノミコト・イザナギノミコトが祀られている。
そこから、松江城に向かうと、お堀端の武家屋敷跡の一角に旧小泉八雲邸がある。松江には「松江の七不思議」を始め、昔から伝説がたくさんあったという。
八雲は、神話や伝承の話を採集するのにふさわしい場所に居を構えていたことがわかる。

この『日本の面影』には、八雲が来日してから松江を去るまでの一年七ヶ月のことが書かれている。訳者あとがきで、そのことを知ったとき、私は信じられない思いだった。なんと中身の濃い一年七ヶ月を過ごしていたのだろう。初めて見る日本の風景や人々に刺激を受け、どんどん日本に惹きつけられていく。松江に移り住んでからは、精力的に周辺の神聖な場所、妖気溢れる場所を訪れ、日本を、そして日本人を理解していく。日本人の私にさえ気づかなかった日本人の個性、日本人の心を、こんなに短期間で捉えていたとは、いくら以前ジャーナリストの仕事をしていたからと言って、並大抵の観察力ではない。

『東洋の第一日目』には日本の第一印象が書かれている。日本的なものは繊細で、美しく、かわいらしく、優美で、どれも買いたくなってしまうと書いた後、このように述べている。

認めにくいことかもしれないが、もしかしたら読者が心底ほしいものは、店に置いてある商品でなく、その店であり、店員であり、のれんも住人もひっくるめた、店々の並ぶ通りである。さらには、町全体であり、入り江であり、それを取り巻く山々であり、雲ひとつない空にそびえる富士山の美しい白い頂きではなかろうか。実のところ、魅惑的な樹木、光り輝く大気、すべての都市、町、寺、そして世界でもっとも愛らしい四千万人の国民も一緒に、日本全体をまるごと買ってしまいたいのだ。

「もの」「人々」「街並み」「自然」など視覚的に捉えたものから、既に日本贔屓が始まっていることがわかる。

松江に英語教師として赴任して日本家屋に住まいしてからは、日本人でも入ることができない杵築(出雲大社)の本殿に招かれたり、子供たちの霊が夜な夜な集まるという加賀の潜戸の洞窟に行ってみたり、盆踊りを見学したり、各地に伝わる怪談を聴いたりと、貪欲に日本を感じとる体験を重ねている。その結果、視覚的なものだけでなく、人々の心、古来から連綿と続いている日本的な「何か」に惹かれ、また日本人以上にその「何か」を説明できるようになっていった。

都会育ちであまり盆踊りに縁のなかった私は、八雲の書く『盆踊り』で初めて、土地土地で古くから毎年行われている盆踊りの雰囲気を知ることができた。盆踊りは、太古の調べや感情を伝えていることを、そしてその自然な発露である歌や踊りに出会ったならば、感動を覚えるであろうことを想像できた。

また、辛いときも悲しいときも、他人に心配をかけるまいと笑顔を絶やさないのは、日本人独特の振る舞いであり、美徳であるのだと、『日本人の微笑』は教えてくれる。

 日本人のように、幸せに生きていくための秘訣を十分に心得ている人々は、他の文明国にはいない。人生の喜びは、周囲の人たちの幸福にかかっており、そうであるからこそ、無私と忍耐を、われわれのうちに培う必要があるということを、日本人ほど広く一般に理解している国民は、他にはあるまい。

しかし、このようなことも書かれている。

 日本人の微笑を理解するには、昔ながらの、あるがままの、日本の庶民の生活に立ち入る必要がある。西洋かぶれの上流階級からは、なにも学び取ることはできない。

私は、この本を読む前に出雲、松江を旅したのだが、お世辞ではなく地元の人たちの穏やかな笑顔を、とても心地よく感じた。大げさでない心からの笑顔のように思えたのだ。東京では、どこかお店に入っても、ばか丁寧な台詞-たぶんマニュアル通りだ-と共にとってつけたような笑顔に会うことが多く、このように穏やかで自然な笑顔は、なかなか見ることができない。上流階級でなくても、西洋にかぶれると笑顔の質まで変わってしまうのだろうか。

小泉八雲は、すでに明治の頃、西洋化されつつある日本を嘆いていた。

 出雲だけではない。日本国中から、昔ながらの安らぎと趣が消えてゆく運命のような気がする。ことのほか日本では、無常こそが物事の摂理とされ、変わりゆくものも、それを変わらしめたものも、変わる余地がない状態にまで変化し続けるのであろう。

変わらないというのは無理な話であるし、変わったからこそ、飛行機を使って、限られた時間で私は出雲に行けたわけだ。しかし、「変わる余地がない状態にまで変化」してしまったら、日本が日本でなくなってしまう。変わらなくても良いところは変えない。昔から伝わることは大事にする。そうして必死に「日本」を守っていくしかないのである。
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『妖怪・妖精譚 小泉八雲コレクション』 ラフカディオ-ハーン・作/池田 雅之・訳

妖怪・妖精譚 小泉八雲コレクション (ちくま文庫) 妖怪・妖精譚 小泉八雲コレクション (ちくま文庫)
ラフカディオ・ハーン (2004/08/10)
筑摩書房
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子供の頃、多少は怪談なども読んでいたのに、パタリと読まなくなったのは、『耳無し芳一』の載っていた怪談集を読んでからである。夜眠れなくなってしまったのだ。それ程までに小泉八雲の書く怪談は怖かった。
最近になって、もう大人になったのだし大丈夫だろう(大人になってからずいぶん経っていますが・・・)と、この本を読んでみることにした。

『耳無し芳一』は、今読んでもやはり怖いが、こんなに味わい深い話だとは気づいていなかった。子供の頃読んだときには、まだ源平合戦のことなど知らず、それに付随して「平家蟹」のことが書かれていても、「何の事やら?」で、ただ怖さだけが頭に残ったのだろう。今は、「平家蟹のことを書くなんて、日本の自然を愛し、言い伝えを面白がる小泉八雲らしい。」と、微笑ましくさえ感じるのだ。

怖くない、それどころか笑えるような話を書いていたことも知らなかった。

『団子をなくしたおばあさん』は、底抜けに明るくて、読んでいるこちらまでおばあさんと一緒に「て、へ、へ」と笑ってしまいそうだ。そのおばあさんの鬼退治の方法ときたら、またまた笑い出さずにはいられない。
『若がえりの泉』の無邪気すぎるおばあさんには、呆れるやら気の毒やら。

このように愉快な話の中で一番好きなのは『ちんちん小袴』である。
美しいけれどだらしのない若妻が、畳の隙間に楊枝を捨てていたために、畳の妖精がたしなめたという筋だが、その妖精の姿も、たしなめ方も、実に可愛らしいのだ。小泉八雲は日本のことをしばしば「可愛らしい」と表現しており、また日本人については「いつも笑っていてあまり怒らない」と書いているので、この妖精にも日本の魂が吹き込まれているように感じる。そして、この物語の中では、日本の魂が薄れつつあることも示唆している。

この妖精が今も日本にいるかどうか、わかりません。日本に新しく入ってきた鉄道や電信柱に、妖精がおびえて逃げてしまったらしいのです。

畳の妖精は、小さな子供に教訓を与えてくれるが、もう少し大人向けのものもある。

ある博識な僧のところへ、夜な夜な普賢菩薩が象にお乗りになっていらっしゃるという。僧によれば、普段から座禅や読経に励んだおかげらしい。近くまで来た猟師は、今晩一緒に拝まぬかと誘われるが、はたしてそんなことがあるかと小僧に訊いてみると、小僧も見たという。それで夜を待つことにした。
夜になり遠くの方から小さな光が現れ、次第に近づいてきたまばゆい普賢菩薩に向かい、僧と小僧はひれ伏して念仏を唱えはじめた。しかし猟師はその菩薩を弓矢で射ってしまう。
博識で学識のある和尚さんなら仏さまを拝めるかもしれないが、殺生を生業にしている自分にまで見えたということは、本物の普賢菩薩ではなく魔物がだましているのだと、猟師は判断したのだ。
そして翌日、矢の刺さった大狸の死骸が見つかった。

 僧は博識で敬虔な人物でしたが、いともたやすくたぬきにだまされてしまったのでした。しかし猟師は、無学で仏門の修行を積んでいませんでしたが、しっかりと常識を身につけていました。そして、こうした生来の知恵こそが、危険な幻想をも即座に見破り、撃退することができたのでした。

この話の題名は『常識』である。

五十三の物語の後に、妻節子の『思い出の記』が載っていて、小泉八雲の好きだったこと嫌いだったこと、怪談を節子から八雲へ伝えてるときの様子などがわかる。
古い書物にある怪談が、節子を通じてどのように伝承され、八雲の中でどんなものと混ぜて練り直され、再話文学として新しい命を与えられたのかが垣間見られ、怪談・妖精譚をより一層楽しめるつくりになっている。

食品会社の不祥事報道に思うこと

一日でも早く本の紹介をしたいのですが、どうしても気になって仕方がないことがあり、一度書いておこうと思います。私の考えは少数派であるかもしれないけれど、全体主義的傾向がある今の日本では、少数派の意見を表明することを怠ってはいけないと考え、拙い考えですが書き留めておくことにしました。

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10年近く前のことになるが、和菓子屋のご主人がこう嘆いていたのを聞いたことがある。
「保健所から、桜餅用の桜の葉は殺菌していないから、プラスティック製の人工の葉を使った方が良いのではないかと言ってきたんだ。桜の葉にはもともと自然な防腐作用があるのに、それを使わなくなったら、かえって菓子が傷みやすくなるだろう。」
和菓子業界が長い経験から得た防腐の知恵が、法律か保健所のポリシーかわからないが、ここ数年の間に決められた「新しい決まりや考え方」によって葬り去られようとしていることに、明らかに戸惑っていた。

最近、次々と報道される食品業界の「不祥事」と称される出来事。「十数年前から行っていた。」「何年も消費者を騙し続けてきた。」というフレーズに、私はひっかかる。何十年も、もしかしたら何百年も、そのやり方で何の被害もなく、衛生上も問題なかったのだとしたら、その「新しい決まりや考え方」の方が何かずれていたのではないか?どんなに頭の良いお役人の考えることより、専門家の何代にもわたる経験の積み重ねの方が実際的だということもあるのではないだろうか。
しかし、そんな見解を述べる人はいない。当事者や食品関係者がそんなことを言えば、「反省していない。」「傲慢だ。」「衛生観念がない。」「もしや、おまえの会社もか。」と叩かれ、自分が潰されかねないことは目に見えているからだ。

当事者が、はっきりと意見を述べた例を一件だけ覚えている。
あるコーヒー会社が、賞味期限の切れた自社製品を別の商品の原料として再利用していたと報道された。仔細は載っていなかったが、例えばインスタントコーヒーを缶コーヒーの原料としていたというような事だろう。その企業は、「品質に全く問題なく、資源の有効利用のため、責任をもって再利用している。」と堂々と説明し、違法性もなかったためか、以後報道されなくなった。あの毅然とした態度は、外資系企業のなせる技かもしれない。その一件で私は、企業側の説明に納得し、多くの食品企業が同じようなことを考えているのではないか、そしてそれは悪いことではないと感じた。

学生時代にアルバイトをしていたパン屋さんでは、前日に焼いた食パンはサンドイッチにし、前日のフランスパンはラスクにして販売していた。お肉屋さんやスーパーで自家製のお総菜を売るのも、同じように食材を無駄にしない工夫から始まっていたのではないかと思う。しかし今なら「売れ残った物を販売していた。」と報道されるのだろうか。それとも無名なら良くて、有名どころはだめなのか。

主婦の一人として、「より新しい原料を使った作りたての物を食べたい。」という気持ちはよくわかる。だが、その飽くなき新鮮さへの欲求が、食材の無駄や環境破壊、コストの高騰を招く場合もある。
ただでさえ、世界人口増加による食糧難が予想されたり、安全面からも食料自給率が重視されたり、原料コスト高で食品の値上げが続いているのだから、食材の有効利用についての視点ももつべきではないかと思う。特にマスコミは、安全性の一方で、暴走しがちな消費者の鮮度志向と、資源や価格の問題を、複眼的に見た報道をするべきだと思うが、大企業や老舗をやりこめることに嬉々としているだけなのが現在の報道姿勢である。「内部告発」が正義であるという風潮も、マスコミが楽をしてネタを採るための策略ではないかと疑ってしまう。

前回の記事に書いたように、私は久しぶりに日本に行き、国内産業の衰退を危惧している。中でも食品は生活の基本であるのに、マスコミが競って、食品会社のあら探しをし、潰れるまで叩きのめそうとする姿勢はどうかと思う。
日本の食品産業が廃れて輸入食品ばかりになったときに、衛生状態や保存料の使用や鮮度等の面で日本の製品の方が良かったと嘆いても手遅れだ。

もちろん、規則があるなら企業は守らなくてはならないし、嘘をつくのはいけない。しかし、科学的な「安全」でなく心情的な「安心」を軸にした、企業を叩くことが目的となりブームにさえなっているような報道が、長期的に見て本当に社会のためになるのか、冷静に考えた方がよいのではないだろうか。



再開します。&月刊誌『WiLL』11月号

子供達の春休みに合わせて、日本に一時帰国して参りました。
百聞は一見にしかず。日本の良いところを再発見したり、ネットではわからない今の日本の空気を感じたり、たくさんの方々とお話をしたりして、たいへん充実した時を過ごすことができました。

訪れた図書館、飲食店などで思いがけない親切を受け、宿泊した何軒かの宿でもみなさんよくして下さり、日本を旅行中の外国人たちからは日本賛美の声を聞き、日本の文化に触れ、やはり日本は素敵な国だと感じました。
一方で、返事をしない人、だらしない恰好の中・高生、大人をバカにした態度の小学生を見て、悲しく思ったりもしました。

学生の頃毎日通った懐かしい街が、薬の安売り店、電気製品の安売り店、和洋ファーストフード店、携帯電話ショップ、洋服の安売り店の並ぶ街に変わっていて、ショックを受けました。
また飲食店関係を中心に、アジア人の店員さんが多いことに驚きました。
東京のあちこちで再開発がされ複合商業施設ができているようですが、知人たちに「物も食べるところも高く、個性らしい個性もなく、行ってもおもしろくない。」と教えて貰いました。

経済問題には詳しくないのですが、これらの現象を見て、日本の国内経済は何か狂っているのではないかと感じました。
海外(欧米)のブランド、外国人労働者、海外(アジア)で生産した安い消費財にお金が流れていってしまい、国内に留まるお金はどれほどなのでしょうか?
日本が誇りとしてきた製造業は、質より価格重視の競争に潰されてしまわないでしょうか?

月刊誌『WiLL』11月号に、金美麗さんがチャイナフリー生活の勧めを書かれています。その目的の一つは対中政策の切り札として、もう一つは日本国内産業への貢献です。私は日本に滞在して、後者の目的に強く共感しました。
しかし、実際にチャイナフリーの生活を行うことは、困難を極めるということも書かれていました。食品、衣料品、最近では電気製品も中国製が多く、日本製をどこで買えばよいかわからなくなっているようです。
複合商業施設やアウトレットショップ(これもブランド物と中国製品ばかり)を次々と建てている暇があったら、日本製品ばかり集めた商業施設をつくって頂きたいと思いました。もしくは、地場産品の販売を全国各地で行っている「道の駅」が取扱商品を増やし、その全国に広がるネットワークを利用して「日本製品が手に入る小売りチェーン」として変貌するとか、何か工夫はできないものでしょうか。

さて、これから日本から持ち帰った本を読み始めます。限られた時間で本選びをしたので、玉石混合かもしれません。良い本に巡り会えたらご紹介しようと思いますので、またよろしくお願いいたします。

十月中旬までお休みします。

十月中旬まで一ヶ月ほど、まとまった時間が取れないので更新ができなくなります。
万が一、新しい記事を書きましたら、この下にアップいたします。
頂いたコメントは読んでお返事も出来ると思います。
これまでに紹介した本の一覧はこちら←クリックすると表示されます。

それでは、皆様お元気で!

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