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『五重塔』 幸田 露伴

五重塔 五重塔
幸田 露伴 (1994/12)
岩波書店
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前のめりに読んでしまう本、というのが時々ある。話の筋が面白くて、文章の調子が良くて勢いがある。面白いからゆっくり味わいたいのに、ついつい目が先を追ってしまって、頭が半歩後からついていくという感じだ。

現代の作家では佐藤賢一さんの作品がそうで、ほとんど転びそうになりながら読むことが多い。中世から近世のヨーロッパを舞台にした痛快歴史小説なのだが、言葉の調子が時代がかっていて、なぜか講談を聞いているような気になってくる。

一方、文語体は読みにくいもので読むのに時間がかかる、という先入観があった。しかし文豪幸田露伴の『五重塔』は、冒頭から前のめりになり意表を突かれた。そういえば佐藤賢一さんの時代がかった文章、講談のような歯切れのよさは、この幸田露伴の文語調に似ているところがある。『五重塔』は「前のめり小説」の本家本元なのかもしれない。講談のような調子、そして歌舞伎を観ているかのような場面展開と登場人物の台詞で、読む者を逸らさない。

主人公は大工の「のつそり十兵衛」なのではあるが、他の登場人物も決して脇役とは思えず、誰一人欠かせない役割を担っている。

親方を差し置いて、五重塔建立を引き受けたい十兵衛。親方への不義理は重々承知であるが、腕に自信はあっても世渡りの上手くない自分が真の力を発揮するには、この時を逃してはならないと悟る。

親方源太は、よくよく人間のできた人で、二度にも三度にもわたり、十兵衛に譲歩をして、自分は身を引く。いくら義理・人情の大工の世界とはいえ、ここまで寛容な男がいるとは驚くが、その寛容さと十兵衛の意固地さの対比が、この物語の芯を作っている

二人を取りなす上人は、登場回数こそ少ないが、十兵衛に本来の実力を出させ源太の本心を受け止める、なくてはならない人物である。

この他、親方夫婦に忠実な清吉、源太の妻お吉、十兵衛の妻お浪。誰もが、自分の分をわきまえ、それぞれの役割を果たし、すとんと胸に落ちる行動をとってくれる。

私は女性だから、お吉とお浪に共感するところが多かった。
頑固で親方に義理を欠く十兵衛には罰当たりだと切々と諭し、親方には感謝の気持ちを伝えるお浪。源太をたて弟子に気を配る姉御肌のお吉は、気も強いが、最後の最後まで弟子を気遣うことを忘れない。立場上源太ができないことは、お吉が気を回して始末をつけておく。
性格は全く違えど、夫のできない部分を補い、物事を円滑に進めようとする気遣いは違わず、どちらも妻の鏡である。

これらの登場人物が喋る台詞や仕草に、それぞれの思惑や迷いや思い切りが表れていて、心の奥まで覗ける気がする。

一見、文語体で難しそうだが、最初から順に読んでいけば、すっかり言葉の調子にのめりこんでしまう。誰にでも楽しめるところを紹介してみよう。清吉が無茶をやり、「め組」の親分に取り押さえられた場面だ。括弧(「」)がないが、句点の部分で話者が替わると考えれば難しくない。

・・・ゑゑ、じたばたすれば拳殺(はりころ)すぞ、馬鹿め。親分、情けない、此所(ここ)を此所を放してくれ。馬鹿め。ゑゑ分からねへ、親分、彼奴(あいつ)を活かしては置かれねへのだ。馬鹿野郎め、べそをかくのか、従順(おとなし)くしなければ尚(また)打(ぶ)つぞ。親分酷い。馬鹿め、やかましいは、拳殺すぞ。あんまり分からねへ、親分。馬鹿め、それ打つぞ。親分。馬鹿め。放して。馬鹿め。親。馬鹿め。放(はな)。馬鹿め。お。馬鹿め馬鹿め馬鹿め馬鹿め、醜態(ざま)を見ろ、従順(おとなし)くなったらう、野郎我(おれ)の家へ来い、やいどうした、野郎、やあ此奴(こいつ)は死んだな、詰らなく弱い奴だな、やあい、誰奴(どいつ)か来い、・・・

会話が加速的に速く短くなってくるのが面白い。水をかけられて清吉は息を吹き返す。

此様(こんな)野郎は危うく生きるものだ、それ占めた、清吉ッ、確乎(しっかり)しろ、意地のねへ、どれどれ此奴は我が背負つて行つて遣らう、十兵衛の肩の疵は浅からうな、むむ、よしよし、馬鹿ども左様なら。

ここで、この幕終了。という感じだ。
もちろん、こんなドタバタな場面ばかりではない。有名なのは、建立が成され、お披露目前日に荒れ狂った大嵐の場面のようだが、私はとにかく会話と登場人物たちの心の中に取り憑かれた。
親方の親切や寛容を知りながらも、何もかもはねつけて一生一世の仕事へ思いを燃やす十兵衛のぞっとするような割り切りと、源太が気持ちを抑えに抑えて、自分の中で怒りよりも人情を勝たせようとするところは、どちらを見ても、やるせなくもあり力強くもあり、何とも言えない気持ちで読んだ。
最後に上人が粋な計らいをすることで、もやもやした気持ちがすっとしたが、こんなに簡単ににすっとしてしまうとは、読んでいるうちに江戸っ子気質が乗り移ってきていたのかもしれない。


※四方山話
前回紹介した『職人』とは「大工」という繋がりから続けて読んでみましたが、幸田露伴と竹田米吉に共通する部分が色々あることに気づき、おもしろかったので書き留めておきます。
・明治生まれ。(『五重塔』が書かれた2年後に竹田米吉が誕生)
・江戸っ子。
・子供の頃から読書好き。
・高等教育を受けず社会に出る。(露伴中学中退、米吉13歳から奉公→成人後に早稲田大学へ)
・専門学校を経て技術者となる。
・北海道で技術者として働いた経験。
・文才がある。
・昭和の時代まで生き80歳を越える長寿。


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『職人』 竹田 米吉

職人 職人
竹田 米吉 (2003/11)
中央公論新社
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この『職人』を書かれた竹田米吉さんは、「小僧」としての奉公から経験された本物の職人である。明治生まれで、書かれたのは昭和三十三年だというのに、今読んでも古めかしくなく、すいすいと読めてしまう。江戸っ子で歯切れが良く、勉強家で書くことも達者、しかも自己の活き活きとした体験を語っていて内容がおもしろいからであろう。

竹田さんの父親は、徳川時代に江戸城や大名屋敷の普請をしていた大工たちの流れをくんだ棟梁だった。そこで父親の時代の職人たちの様子から書き起こされている。
そしてご自身については、まだ徳川時代のことを知っている職人たちの間で揉まれた小僧時代、工手学校で建築家としての勉強をし、駅舎や工場という大きな仕事に関わるようになり、更なる向学心から早稲田大学の建築科に入学するまでのことが書かれている。
時代は明治後半、各方面で日本の西洋化が図られ、職人の世界も大きく変わったであろう時期である。

時代の変化やそれに伴う建設業の変遷や問題点、昔の職人や建設に関わる人びとの仕事や暮らしぶりなどが実によくわかり、『職人』という簡素な題名の一冊の本からこんなに教わることがあるとは思いも寄らなかった。

一番印象深かったのは、職人たちが活き活きと楽しそうだったことだ。仕事道具を買う店に贔屓があり、仕事着の仕立てにもうるさい。ぴたっとしないだぶだぶの股引を履いていれば

「なんでえ、象の股引きみてえのはいてやがって!」

とけなされ、鉢巻きの仕方が変ならば

「梅坊主がかっぽれを踊るんじゃねえぞ!大工らしくしろ!」

と怒鳴られる。これも熟練の職人にとっては当然のことで、道具が股引きに引っかかったり、鉢巻きがずり落ちてくれば仕事にならないからで、職人の「粋」は全て仕事に関わっている。
鳶職が高いところでバランス良くひょいひょいと歩けるようにするのも、狭いところでものを運んだり、危ないときにはサッと別の足場に跳び移れるようにしておくためであり、見端を気にしているだけではない。そもそもは安全性や作業性のためなのである。

つまり、この場合の職人とは、仕事の技術、姿勢、倫理観を伴っている人たちのことである。手に入るお金は少なかったかもしれないが、仕事着、外出着二種類の半纏は支給され、食事もついていて、生活は安定していた。そして、なにより仕事に誇りを持っている。もちろん、そこまでたどり着くには小僧時代からの厳しい修業を乗り越えねばならない。

実際、職人の技能は誇るべき専門的能力であって、これを覚えるには年季奉公にゆくほかなかった。そこで相当の家庭の子弟でも、職人を志す者は他人の家に住み込んで年季をつとめる慣わしであった。

竹田さんご自身も、棟梁の息子でありながら、別の棟梁に奉公し、小僧としての下積みや先輩からのいじめなど、一通り経験している。仕事場への往復は疲れ切って、眠りながら歩いていたほどであったという。本当に実力主義の社会だったのである。

小僧の生活というのは辛いものだが、簡単に辞めてしまうような少年はあまりいなかったようだ。

また逃げたからといって、連れ戻されてひどい罰を食ったり、折檻を受けることはなかった。問題は面目にあるのだ。両親や親戚の面汚しになるという怖れが、へげたい少年の心を抑えた。この道徳観はそれほど力強いものだったのである。
※へげたい・・・逃げたい

竹田さんのすごいところは、そんな小僧時代を含め、どのような環境下でも常に何かを学び取っていることで、この本で感銘をうけたことの一つに、竹田米吉その人の生き方、職業観がある。

小僧時代に鉋ばかりかけていたことも「木心(木質)が一目で判断がつくようになった」と評価しているし、全く知らない分野の監督を命ぜられたときは、専門の人たちに教えを乞い、煉瓦積み、左官、ペンキ塗りなど、大工とは職種の違う人たちの現場のことまで詳しくなる。経理にうるさい上層部と話をするため事務の仕事を覚える。すぐれた指導者の下ではその仕事振りを観察して学んでいるのは当然として、実務経験のない上司に振り回されたときや災害にあったときでさえ「おかげで真摯に現場の人たちに教えを乞うことが出来た」「試行錯誤して斯く斯くの技術を学ぶことが出来た」などとありがたがってまでいるのだ。
こうして、現場のわかる技術者として力をつけていく。

現場のことがわかると言っても、決して馴れ合いにならず、言いつけを守らない親方に注意をして殴りかかられ乱闘になったり、仕事のわかっていない若い鳶からも殴られそうになって取り押さえたり、手荒なこともやっている。

そうした経験からくる自信が次の一文に良く表れている。

人は自己の職分に正しい知識があり、仕事に熱意があれば何ごとも恐れることはない。

この竹田さんから見た、実務経験がなく、熱意もなく、プライドばかり高い、名ばかりの技術者に対する批判は実に鋭い。文明開化で封建的な仕事のやり方が減った一方で、実力とは無関係の肩書き重視の人事や、事なかれ主義の仕事が行われ始めていたことが垣間見られる。
この本の中には「封建的なのはよくないが・・・。」と断りながらも、徒弟制度を懐かしむ竹田さんの気持ちがにじみ出ている箇所がいくつかあった。日本の近代化の裏には、失われたものも多くあったということが察せられる。


※これまでに紹介した関連書籍
『天皇の料理番』
 同時代の異業種-西洋料理の世界で、下積みから始めて第一人者まで上り詰めた料理人の伝記。貪欲に技術を習得し、どんな環境からも何かを学び取り、先見の明をもつという点で、竹田さんと通じるところがあります。また、どちらの業界も「文明開化」の波に乗り、変化の時代であったことが感じられます。
『木の教え』
 木は伐られてから「木材」としての命を与えられる。その木の命を生かすのが大工の仕事。長年の経験や伝統が、いかに木をうまく生かすことになるか。専門的なことがやさしい言葉と豊富な図で、わかりやすく書かれています。 

『はちみついろのうま』 オリガ ヤクトーヴィチ・絵/小風 さち・作

はちみついろのうま はちみついろのうま
オリガ ヤクトーヴィチ、小風 さち 他 (2001/04)
福音館書店
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まだ日本にいる頃、我が子が本屋さんで一目惚れをして、どうしても欲しいと言ったのがこの本だった。普通の絵本よりも大型で本棚には収まりそうもなく、悩みに悩んだが、それまでになく熱心に「買って欲しい。」と言うので買ってやることにした。なぜ気に入ったのかを聞いてみると、「絵が素敵だから。」と言う。

作者である小風さちさんも、本の裏表紙にこう書かれている。

このお話はウクライナの画家、オリガさんの筆が産み出す美しい世界を、もっと見てみたい一心でつくりました。

はたして、オリガさんの筆は素晴らしいものだった。
ある村の若い娘が主人公であるが、その村は昔のウクライナのどこかなのだろうか。刺繍を施したかわいらしい服や織物のベルトは民族衣装のようである。きのこ摘みのためのかごや草鞋に似た靴は手作りなのだろう。娘の父親が編んでいる場面も描かれている。その傍らで母親はパンを焼いている。部屋には木で出来た台所道具や、焼き物の壺や皿が並んでいる。あまり馴染みのないウクライナという国が、とても親しく感じられてくる。

お話は、娘と隣村のかじやの若者が婚約するところから始まる。結婚相手として求められるのは料理上手であるということ。

かじやのははおやがききました。
「ふゆのたくわえはつくれるのかね?」
「ジャムに すづけ。そのほか なんでも」
「スープは うまく つくれるのかね?」
「にくに さかな やさいの スープ」
わかい かじやが ききました。
「きのこの スープは つくれるかい? かみの きれいな おじょうさん」
むすめは ちいさく うなずきました。


そんな会話をした後で、娘は健気にきのこスープときいちごジャムを若者に届けようと、きのこときいちごを採りに出かける。そして父親が決して入ってはいけないと念を押した森の中にまで入っていってしまう。森には魔女が住んでいたのだ。恐ろしい魔女と聡明な若者の対決・・・。

無事に行われた結婚式でのお料理のおいしそうなこと!人びとの楽しそうなこと!
そして、結婚してから娘が旦那様のために作ったきのこスープときいちごのジャムも、それはそれはおいしかったことだろう。


※この絵本を思い出したのは、前回の記事に小楠さんが寄せてくださったコメントにウクライナのことが書かれていたからです。とても素敵なエピソードでしたので、ここに転載しておきます。

先日在ウクライナ大使の馬渕睦夫氏が言ってましたが、伝統を重んじるウクライナでは小学五年生の教科書で松尾芭蕉が教えられ、高等学校では川端康成の「千羽鶴」が教えられているそうです。
そしてそれを通して、日本人については、倫理観の強い、調和を重んじる民族と教えているようですよ。
ちなみに隣のイタリア語を習う生徒が1000人に対して、日本語をとる生徒は2000人もいると言ってました。
こんな国にこそしっかり援助したいものですね。


小楠さん、良いお話を教えてくださりありがとうございました。


『アラブのこころ』 曾野 綾子

アラブのこころ アラブのこころ
曾野 綾子 (1979/01)
集英社
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先日読んだ清水義範さんの本の中に「イランはアラブではない。」という箇所があり、そうかイスラム=アラブではないのだ、とハッと気づいた。また「ウナムのまなざし」さんのサイトでも
>僕が出会ったあるトルコ人はトルコをアラブの一部と思われるのをすごく嫌がっていた。
と書かれていた。やはりイスラム=アラブではないのだ。

ではアラブっていったい何だろう?

曾野綾子さんは、「知ったかぶり」の反対「知らないかぶり」が上手な方なのではないかと思う。日本人の意識はアラブとアブラ(油)が結びついた程度だと認識し、そのレベルまで「知らないかぶり」をして、取材をしてくれている。アラブ諸国にいる日本人や現地の人たちへ素朴な質問をぶつけ、私のようなアラブ初心者にもわかることばかりが書かれている。

最初の質問からして率直である。

「ところで、アラブ人、というのは、いったい誰のことなんですか?」

それに対する答えはこうだ。

「アラビア語を喋り、アラブ文化圏に育ち、アラブのいずれかの国で生活し、ムハンマドの教えを信じ、アラブの民族のどれかに属すること。このうちの一つ以上の条件をみたす者が、アラブなんだという説が出されていますが、ここらあたりが妥当でしょうね。
 しかし、母国語がアラビア語であるべき子供が外国で生まれ育っても、やはり、アラブ。イスラム教でなくて、キリスト教のアラブもたくさんいる。コミュニストのアラブもいる。しかしまぎれのないアラブ社会にいるように見えても、エジプトのコプト派のキリスト教徒と、それからユダヤ人たちは、自分たちをアラブとは思っていない、とバタイは書いておりますな。」


ここで曾野さんは、読者の気持ちを代弁するかのように、

「少しめんどうくさくなって来ました」

と仰る。
面倒なのである。この本を読めば読むほどわからなくなってくる。
戒律により人目を避けて幽閉されたような生活を送るアラブ人女性もいれば、パレスチナでは女性戦士もいる。
イスラム教は砂漠ならではの宗教だというが、砂漠に住まいする遊牧民ベドウィンは、敬虔なイスラム教徒ではないらしい。
親切にしても恩を感じたりせず、一度のサービスが次の商売には結びつかない。その一方で、ぼったくりタクシーの運転手を怒鳴りつけた日本人が、後日、町中で自分にむかって手を振っているその運転手を見つけたりする。

曾野さんは「知らないかぶり」が上手だと思うのは、曾野さんご自身の感想や説明は、多くの関連書物を読まれたのであろう豊富な知識と宗教に対する深い理解に基づいていて、大変わかりやすいものだからだ。

そんな説明の助けを借りて、私が感じたことは、アラブはその自然環境によって性格づけられたのではないかということだ。厳しい砂漠には圧倒的に水が足りない。少ない水を巡って、人びとは絶対に譲り合わない。命に関わるからだ。譲らないのと同じように、人を信用しない。それが生きる知恵なのだ。

例えば、エジプトのサダト大統領の言葉を、こう分析している。

「(前略)・・・そもそも永遠の敵もなく、永遠の友というものもない」
 この返答は日本人とエジプト人の根本的な差をあらわしている。日本人は「永遠の敵はない」というところで感動して終わりにする。しかしサダトは冷静に(当然のことであるが)「永遠の友もない」という現実を確認するのである。


そして、ついつい現在の日本に結びつけてしまうような文章が目に入ってくる。

譲り合うのがいい、と日本人が考えることは自由である。しかしこの地球上の恐らく大多数の人間は、譲り合うことになどいささかの意義をみとめていない、ということもはっきりと確認すべきなのである。

譲り合いの精神は日本人の美徳である。しかし、それは譲り合うだけの余裕がある、豊かで平和な国でしか育まれ得ないものなのかもしれない。そして外交という、価値観の違う相手と駆け引きをしなければならない場面では、その美徳は命取りにもなる。水が獲得できないアラブ人は生きられないのと同じように。

 まさに、アラブ諸国こそ、その人間の原型を保っており、日本人の方が異様だということさえ言えるのかも知れなかった。

また、もう一つ現代の日本人の方が異様なのかもしれないと思ったのは、アラブの次の格言を知ったときだった。

「宗教を呪え、そうすれば神は助けてくれる」
忠実なもの、良きものが必ずしも報いられないということはアラブにおいても真実なのであった。


日本では、その真実が忘れられ、「金で買えないものはない。」「努力すれば必ず夢が叶う。」「人は皆平等に幸せになれる。」という甘い言葉が横行している。だから少しの不運にも耐えられない、不平不満の多い、弱い民族になっているのではないかと思う。

アラブ人とは結局誰なのかは、よくわからなかった。
しかしアラブとは何かは、おぼろげながらイメージがわいてきた。人間の原型のまま、過酷な自然環境の中でも強く生きていく民族のことのようである。




『けんた・うさぎ』 中川 李枝子・さく/山脇百合子・え

けんた・うさぎ けんた・うさぎ
中川 李枝子 (1986/11)
のら書店
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『ぐりとぐら』が好き。という人は多いが、私はそれほど深い思い入れがなく、同じ中川李枝子・山脇百合子コンビの作品では『子どもとお母さんのおはなし』シリーズが好きだ。

その中の一冊『けんた・うさぎ』は、ちょっとやんちゃで甘えん坊の男の子うさぎのお話だ。やさしいうさぎ・かあさんと、時には厳しく時には面白いうさぎ・とうさんとのやりとりが、とても微笑ましい。朝の着替えはこんな様子。

 そこで、うさぎ・かあさんが シャツを ひっぱりおろして、耳がでて、かおがでたと おもったら、おやまあ、けんた・うさぎは、また、目をつぶって、ぐうぐう ねむっていました。おまけに、あしもとが ふらふらして、ひとりで たっていられません。
 むにゃむにゃ いいながら、うさぎ・かあさんの くびに りょう手を まきつけてきました。


うさぎ・かあさんは、仕方なくふにゃふにゃののけんた・うさぎに服を着せ、

「はい、できあがり。」と、いうと、おしりを ぽんと たたきました。
 とたんに、けんた・うさぎは 目をあけて、
「ああ、よくねた。あれ、へんだな、おかしいな。ぼく、いつのまにか、ふくをきているよ。」
と、いって、くすっと わらいました。


そして、台所にはねていき、

「ぼくは、おなかが ぺこぺこだあ。おとうさ~ん おかあさ~ん、はやく ごはんにしてくださ~い。」

などというちゃっかりぶり。
いたずらも度が過ぎると、うさぎ・とうさんの出番だ。けんたが「あべこべ・うさぎ」になると決めた朝のこと。シャツを履きズボンを頭に被って出てきて、おいしいものをまずいと言っていると、うさぎ・とうさんも「あべこべ・うさぎ」になると言い出す。

「そうだよ。けんたが かいしゃにいって、おとうさんは いえで あそぶんだ。しめしめ、こいつはすてきだ、ありがたい。おっと、まちがい、こいつは、こまった、よわったな。」

「おそみみ・うさぎ」になって誰のいうことも聞かなくなったけんた・うさぎを叱るのも、うさぎ・とうさん。

 それでも、けんた・うさぎが しらんかおをすると、うさぎ・とうさんは テーブルをたたいて、きびしいこえで、
「けんた、きこえないのか。」
とおこりました。


それでも聞かないけんた・うさぎ。うさぎ・とうさんとうさぎ・かあさんは、あ・うんの呼吸でけんた・うさぎを困らせることを始める。

けんた・うさぎの方はいたずらしたり甘えたり、うさぎ・かあさんはいつも優しく、うさぎ・とうさんはふざけたり叱ったり。子供と親の駆け引きがとてもうまくいっていて、素敵な家族だなぁと感心する。けんた・うさぎは、こうして、ふざけても良い限度を知り、楽しくて節度のあるみんなに好かれるうさぎに育っていくのだろう。人間の私たちが手本にしたいような、うさぎ一家なのである。





『「反日マスコミ」の真実』 西村幸祐

「反日マスコミ」の真実 「反日マスコミ」の真実
西村幸祐 (2006/11/10)
オークラ出版
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後輩が日本から遊びに来た。オーストラリアくんだりまで子連れで来てくれ何日も滞在するのだから、かなり価値観も似ていて気が合うと見て良いだろう。ところが連日いろいろなことをおしゃべりしている中で「えっ?」と思ったことがあった。日本のテレビ番組の話をしていたときのことである。
「ニュースは筑紫さんの番組を見ている。やさしそうだし感じがいい。」
というのである。ネット上では偏りがあると酷評を得ているあの番組を?彼女は私よりも若いだけあってPCやAV機器に詳しく、ネットも自由に見られるはずであるが、そんな評判は全く知らなかったという。ネットで私が見ているコンテンツと彼女が見ているものは全く違うということだ。
その後、主婦である友人・知人たちにそれとなく聞いてみると、あの番組を見ているという人は多い。そして理由は「やさしそう。」「他に代わる人がいない。」など、筑紫氏の持つ雰囲気への評価が高い。道理で、情報の質の面であれだけの非難がありながら、降板はしないわけだ。

この本を編集された西村幸祐氏は、ネットによって既存のマスメディアのウソや欺瞞が暴かれつつあると常々主張されている。そしてネットを駆使する人とそうでない人の持つ情報量や質が乖離していると指摘されていた。

私の親しい友人達には、自分のPCを持たない人も少なくない。彼女たちに「既存のマスメディアのウソや欺瞞」を知ってもらう方法はないのだろうかと思っていたところへ、このムックが登場した。PCを持たない人や、ネットでも違う分野の情報しか得ていない人たちに是非とも読んで欲しい。

また時事問題は難しいと思って敬遠する人たちにも、この本を奨めたい。
私は、不勉強がたたってニュースがよく理解できなかった学生時代に、『正論』という雑誌に載っていたメディアウォッチング(NHK、朝日新聞)のページを愛読していた。そこには「テレビではこう言われているけれど事実はこうだ。」「新聞には書いていないけれど、こんなことが隠されている。」ということが書かれていて、謎解きのように時事問題を解きほぐしてくれ、難しい問題の理解を促してくれていた。マスコミがねじ曲げたり、隠したりしているために、わかりにくくなっている報道がいかに多いかということだ。
このムックも、マスコミの欺瞞と同時に、様々な時事問題を知ることが出来る。拉致、中国、韓国、歴史、教科書・・・。少ないものは1ページ、多くても数ページの記事なので気軽に読める。以前このブログで紹介した沖縄の集団自決の真実や、阿羅健一氏による「百人斬り訴訟」の解説も、簡潔にわかりやすく書かれている。

それも興味がないというテレビっ子は、「反日マスコミの顔」というコラムから読み始めるのはいかがだろうか。採り上げられているのは、次の方々。
1,文化人編-香山リカ/金子勝/寺島実郎/佐山展生
2,キャスター編-加藤千洋/鳥越俊太郎/川村晃司/大谷明宏
3,在日外国人編-姜尚中/葉千栄/朴一/辺真一/朱建栄

冒頭に挙げた筑紫哲也氏はコラムにはなっていない。なぜなら『筑紫哲也の反日笑劇場・お笑い「ニュース23」』という立派な特集記事となっているからだ。

この本の中で「実態はちょっと違うかも。」 と思ったのは、韓流ブームについて。ブームは作り出されたものだというのは当たっていると思う。そして一時期ほどの熱狂は無くなっているのも確かだろう。ただ、視聴率が取れないからと「韓流は終わった。」と見るのは少し違う気がする。
私には、筑紫番組を観る知人の数と同じくらい、韓流にはまっている知人もいる。彼女たちはTVでは飽きたらず、大久保まで行ってDVDを買ったりしている。私には名前も顔もわからないような韓流俳優のファンクラブに入っている人もいる。ファンクラブでは一枚のDVDを宅配便で送って回し観をしたりするらしい。
筑紫哲也氏が批判されているのを知らない人たちがいるように、韓流がここまで根強いとは知らない人もいるだろう。

世の中、マスの情報だけ見ていたら、わからないことはたくさんあるのだ。


※西村幸祐氏は、コミックオピニオン誌(右下『撃論』)という新しい試みもされています。コミックという形態ですが、原作者に西尾幹二氏、黄文雄氏、荒木和博氏というような方々が名を連ねていて、「難しい問題をわかりやすく」というコンセプトのようです。(私は未読です。)



『日本の神話』 松谷 みよ子

日本の神話 日本の神話
司 修、松谷 みよ子 他 (2001/04)
のら書店
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前回紹介した『楽しい古事記』の記事にも書いたが、今の日本には古事記をあまり子供達に教えたりしたがらない人もいるようだ。信憑性がないからだとか、天皇家を神格化すると戦争に繋がるとか、そういう理由があるらしい。

松谷みよ子さんも、戦争の思い出から神話を拒否する時期があったそうだ。しかし後に日本の神話の魅力に気づき始め、現在は昔話を大切にするのと同じ気持ちで神話も大切にしようという心境に至ったそうである。

この『日本の神話』は古事記や風土記などから、比較的よく知られた神話が選ばれている。

子供向けでも、なるべく伝わってきたそのままの筋や表現を生かすというのが、神話の魅力を伝えるには大切なことだ。この本には、そうした配慮がみられ、子供だましではないものを感じる。

イザナギがイザナミの死後の姿を見てしまった場面、ヤマタノオロチの恐ろしい姿などは、どんなにおどろおどろしくても、語るに欠かせない重要な場面であり、また神話の躍動感が伝わる箇所である。自分が子供の頃に聞いたり読んだりした神話を思い出してみても、恐ろしくてドキドキした場面は鮮明に思い浮かべることが出来る。

もう一つ、昔の表現をそのまま生かしているというのも、魅力の一つだ。例えば、食べ物の神ウケモチノカミが食べ物を出すところ。

海にむかえば、さかなというさかなが、ひれのはばの広いのも、せまいのも出てきたそうな。また、山にむかえば、けものというけものが、毛の荒いものも、毛のやわらかいものも出てきた。

同じ調子の繰り返しと、反対語の対比。詩のような、歌の歌詞のような表現に出会うと、神話は元々、口承で伝えられてきたというのを実感する。

この本の中で、私が最も好きなお話は「こびとの神様」。
オオクニヌシの住む国に、小さな小人の神様スクナビコナがやってくる。仲良しになって、一緒に国造りに励む。時々は意地を張り合って

「くそをしないで、遠い道をいくのと、埴土をしょって遠い道をいくのと、どちらが遠くまでいけるだろう。」

などという馬鹿げた競争をしたりする。

しかし、このしあわせな日々は、そう長くはつづかなかった。

と、短い中にも涙あり笑いありの物語だ。あまり怖い神話は何度もは読みたくないが、このお話なら何回も読みたくなる。

こういう神話を読むと、日本の神話は、イギリスによくある妖精の物語に近いところがあると感じる。我が子は先日『パーティーの妖精たち』のシリーズ(“RAINBOW MAGIC The Party Fairies”)を読んでいた。「ケーキの妖精」「プレゼントの妖精」「音楽の妖精」・・・、パーティに関係する様々な妖精が出てくる。日本は万物に神が宿る国だ。小泉八雲の書いた畳の妖精の話『ちんちん小袴』のような、現代の神話があってもいいのになぁと思ったりする。

日本の神様たちは自分が絶対だなんて思っていない。失敗もすれば、いたずらもするし、泣いたり笑ったりもする。妖精みたいなんだよ。と言ったら、日本の子供達も、神様に興味を示してくれるだろうか。

『楽しい古事記』 阿刀田 高

楽しい古事記 楽しい古事記
阿刀田 高 (2003/06)
角川書店
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本日は建国記念の日、紀元節である。
つい先日こちらでも建国を祝うオーストラリアデーがあった。町ではイベントがあり、国旗を立てて走っている車があり、顔に国旗のフェイスペイントをしている人たちがたくさんいた。ビシッとスーツを着て国旗柄のネクタイをしている紳士が真面目な顔をして歩いていた。
翻って日本はなぜ、建国の日を大々的に祝わないのだろう?神武天皇は神話の中の話で信憑性がないから?天皇家を崇めるのは民主主義に反しているから?では、どうして暦は西洋の神話イエスの生誕を用いるのだろう?聖書に書かれていることは良くて、古事記は良くない?日本にはわけの解らないことが多すぎる。

建国の日がひっそりとしているのと同じような理由で、古事記もあまり読まれていない。世界一のベストセラー本は聖書であると言われるが、日本一のベストセラーは古事記ではないだろう。イエスが生まれた12月25日のことは知っているのに、神武天皇がどのようにして国を治めるに至ったかを知らない、という人が多いのではないだろうか?

日本人よ、古事記を読もう!

しかし古事記はいかんせん古い書物で読みにくい。そこで、読みやすい本を紹介することにした。以前紹介した子供向けの『コノハナサクヤヒメ』で、私は古事記は楽しい本なのだと知った。そして、楽しく読める大人向けの古事記はないかと探していたところ、この本にたどり着いた。そして予想以上に楽しく読めたので、自信をもってお薦めしたい。

題名に『楽しい』がついているだけあって、楽しくない面倒な名前の羅列などは、適当に省いてあるのが何より有り難い。それでも原文の流れに沿って、重要な箇所はきちんと紹介されている。

そして所々に、その物語由来の場所に旅をした紀行文というか感想文が載っているのがとても良い。私は手元に日本地図を置いて、「へぇ、こんなところで天の岩戸を再現するお祭りが行われているのね。」とか、「スサノオノミコトは、こんな山の中で箸が流れてくるのを見つけたのね。」と確認しながら読んだ。すると古事記がどんどん身近なものに感じられる。出雲の国は本当に雲が多くて、いかにも神様が住んでいそうだという記述には、なるほどと思った。

子供用の本では省略されている箇所にこそ楽しい場面があったりするので、そうした記述が多いのも特徴だ。一つは恋愛の場面。もう一つは登場人物の作った歌の数々だ。恋愛はともかく、歌の方はなぜ子供用の本には省略されているのだろう?難解だからだろうか?阿刀田さんの手にかかると、難解な歌もとてもわかりやすく、またわけのわからないところが面白く思えてくるから不思議だ。

神武天皇の東征で、エウカシという者を亡ぼした後、神武天皇の詠まれた歌は、こんなふうである。

宇陀の館に 鴫を捕る網を張った
待っていた鴫はかからず
なんとやら 鷹がかかった
古い妻が食べ物を乞うたら
そばの木の実のように、ほんの少し削って分けてやれ
新しい妻が食べ物を乞うたら
ひさかきの木の実のように たっぷり削って分けてやれ
ああ、いい気味だ、ざまァ見ろ


「『古い妻』がかわいそうだなぁ。」とか「『ざまァ見ろ』は天皇にしては乱暴な表現だなぁ。」と思ったりもするが、そんなところが古事記の面白いところだ。

神様とは言っても、日本の神様は八百万もいらっしゃるのだから、それぞれに個性的で人間くさい。もの凄く嫉妬深い皇后や、お酒を飲んで相好を崩す天皇もいらっしゃる。ああ、こういう人今もいるいる、というような神様や天皇が続々と登場するのだ。それはそうだろう。彼らは私たちの祖先なのだから。
私が勝手に小泉前首相の祖先ではないかと想像した神様は、次のように自己紹介された。

「私は悪いこともひとこと、善いこともひとこと、一言で決めてしまう言離(ことさか)の神ヒトコトヌシの大神だ」

神様の人間らしい姿を覗き見したり、自分たちの祖先捜しをするというのも、古事記の一つの楽しみ方なのかもしれない。

さあ、日本人よ!古事記を読もう!

『ほたる館物語〈1〉』 あさの あつこ

ほたる館物語〈1〉 ほたる館物語〈1〉
あさの あつこ (2006/11)
ジャイブ
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児童書が好きなので、良い本があったら紹介したいと思っているのだが、なかなか「これは!」という本に巡り会わない。評判の良い本を読んでみても、しっくりこない。家庭環境が複雑すぎる設定だったり、逆に家族の繋がりが軽すぎたり、「帯に短し襷に長し」なのだ。

普通の家庭の話ってないのかしら?と考えていて、ふと気づいた。私が思い描いている普通の家庭は、実は今となっては普通ではないのかも知れない。
私の家は自営業だったから、毎晩家族揃って夕飯を食べていた。食事中には仕事の話題もでてくる。忙しい時期は家族総出で手伝った。もっと忙しくなると親戚まで一堂に会した。親戚も自営業ばかりだったし、そんな家庭を「普通」と思っていたけれど、それは世間では「普通」とは言わないのかもしれない。

この『ほたる館物語』は旅館の娘が主人公。私の育った環境にとてもよく似ている。大抵の人は、おそらく「面白い設定のお話ね。」と思うのだろう。

主人公の一子は小学五年生。旅館の子だから、団体のお客さんがあるときは友達と遊べない。シーツを数えたり、お膳を拭いたりの手伝いをするからだ。

なんで、うち、旅館の子なんかに生まれてしもうたんやろ。

なんて思っている。それなのに、お客さんがキャンセルになっても遊びに行かない。

ひまになったのなら、手伝う必要もない。雪美とも遊べる。そう思っても、素直にはとても喜ぶ気になれない。一子は、壁にかかったお泊まり札に目をやった。『かえで』『さくら』など、部屋の名の書かれた木札が、かかっている。特別室の『蛍』と『柳』は、表が金、裏が銀。他は、表が赤で、裏が白になっている。お客さんが入った時は、表にしてかけるのだ。今は、ほとんどが、白と銀を見せている。それが、死んだお魚のお腹みたいに見えて、一子は、ちょっと気分が悪くなった。

すごくよくわかる。煩わしくても何でも、自分のことより商売のことが気になるというのが、旅館に生まれた子の性(さが)というものだ。

そんな一子が、旅館の子ならではの活躍をする『土曜日のほたる』が第一話だ。家業の役に立つって誇らしい。もの凄く使命感に燃える。

「わかってる。うちかて、生まれた時から旅館の子やってるのや、ちゃんとできる。やってみるわ」

気張ることなく当たり前のように、ちょっと困難な役割を果たそうとする。さすが商売人の子やなぁ、がんばりや、となぜか私まで関西弁で応援していた。

第二話『雪美ちゃん』は、一子の親友雪美が学校で友人に妬まれる話。学校での出来事が、いつの間にか『ほたる館』の女将、つまり一子の祖母によって仕切られて解決に向かう。

この祖母と一子の母のぽんぽんとものを言い合う様子や、無口だけれど包丁さばきには定評があり仕事中はキリッとする父親も、活き活きと書かれていて小気味よい。

私はどっぷり浸かって一子になった気持ちで読んでしまったが、そうでなくても、これを読んだら『ほたる館』一家がきっと好きになる。もしかしたら「旅館の子」に生まれたかったなぁと思う人も出てくるかもしれない。
小学生にも、健全な児童書としてお奨めできる。一子の元気を他の子供達にも分けてやりたい。

※記事を読み返していて、ふと思いましたが、他の児童書作家の方が「じゃあ、私の作品は不健全なのか。傷ついた。」と抗議してきませんように・・・。(笑)

※『ほたる館物語』の続きはこちら。
『ほたる館物語2』
『ほたる館物語3』

『もこ もこもこ』 元永 定正、谷川 俊太郎 他 

もこ もこもこ もこ もこもこ
元永 定正、谷川 俊太郎 他 (1995/02)
文研出版
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一度お会いする機会があって何日かご一緒したけれど、それ以来10年あまりも会っていない。それでも私たち夫婦が「心の友」と呼んで、メールなどで交際が続いている知人がいる。人柄が良くて、子供心も備えていそうで、「お父さんになったら、子供と遊ぶのが上手そうだね。」と主人と話していた。
そんな知人に赤ちゃんが生まれた。おめでとう!!
まだ0歳だけど、記念に何か絵本を紹介したいなぁ・・・と考えていて思いついたのがこの絵本。

0歳の赤ちゃんが、絵本などに興味を持つだろうか。我が子が産まれたばかりの頃、疑心暗鬼ながら、近くに子供の本をたくさん所蔵している図書館があったので、いろいろと読んで聞かせた。十冊選んで一冊くらいの割合だが、興味を持つ本がある。
たいてい、色が鮮やかではっきりしていて、擬音語や擬態語の多い本だ。

この『もこ もこもこ』は、赤ちゃんの心を捉える要素満載の本である。
地面が「もこ もこもこ」と盛り上がってきて、次は「にょきにょき」だったかな?手元になく正確には覚えていないけれど、盛り上がった部分がページをめくる度に次々と形を変え、その動きや形にふさわしい擬態語がつけられている。

赤ちゃんの視覚と聴覚が本に集中していくのがわかる。
読んでいる大人も「次はどうなる?」とワクワクしてくる。

そして、読み終わったらまた最初に戻って「もこ もこもこ」とやっても、赤ちゃんは飽きずに凝視していたりする。

第一子が生まれたとき、言葉が通じない小さな赤ちゃんと、どうやって接したら良いかわからない父親もいるだろう。うちの場合もそうだったらしい。そういう時に助けてくれるのが、童謡と絵本である。『もこ もこもこ』は、絵本のセリフを読むのが苦手なお父さんにも取っつきやすいと思う。

世間のニュースでは、「出産や子育てを女性に押しつけるな!」などとやっていて、こんなに子供が厄介者扱いされてたら少子化になるはずだと、うんざりしていたところへ、赤ちゃん誕生の知らせはとても嬉しかった。
子供を持つ親御さん方は、世間の雑音に惑わされず、子育てを楽しんでいきましょう!

『夜中の薔薇』 向田 邦子

夜中の薔薇 夜中の薔薇
向田 邦子 (1984/01)
講談社
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向田邦子さんのエッセイが好きで、文庫本で揃えて、とっかえひっかえ読んでいた。気づくと高校の頃に愛読していた『父の詫び状』『眠る盃』が手元にない。その次に古い『夜中の薔薇』は表紙が剥がれてしまっている。どこにでも持ち歩いていたのだから仕方がない。

重い内容の本を読んだ後、授業中の眠気覚まし(←いけません)、待ち合わせや電車の待ち時間、いつでもどこでも複雑なことを考えずにすうっと読めて、それでいて決して「くだらない。」とは思わせない味がある。

すうっと読めるのは、身近な話題が多いから。厳格だった父親のこと、おいしいものの話、女学生時代の思い出、町で出会ったこんな人あんな人・・・。当人は美人で、才女で、おしゃれなのに、失敗談や自分の悪癖のことをあけすけに書いているのも好感が持てる。

「くだらない。」と思わないのは、クスリと笑う話に取り混ぜて、人間のダメな部分や社会の風潮をチクリと皮肉っていて、その批評眼に感心したり、自分のことを省みて恥ずかしくなったりすることもあるからだ。その「クスリ」と「チクリ」の按配が、うまい具合なのだ。

例えば、渋谷駅で切符を買ったときに「渋谷一枚!」と叫んでしまったというご自身の失敗談が紹介される。

こういう場合「ここだよ!」とどなり返されるのがオチだが、その駅員さんは違っていた。静かな声で、
「無料(ただ)ですよ」
といって、かすかに白い歯をみせた。私は一瞬、この初老の駅員さんに惚れてしまった。


ここで「クスリ」と笑っていると、次に「チクリ」が来る。最新流行のファッションに包まれた若い人の会話を聞いていると、調子はいいが中身も個性もないと嘆くのだ。しかし、そういう若い人を突き放したりせず語りかける。

自分に似合う、自分を引き立てるセーターや口紅を選ぶように、ことばを選んでみたらどうだろう。ことばのお洒落は、ファッシュンのように遠目で人を引きつけはしない。無料で手に入る最高のアクセサリーである。流行もなく、一生使えるお得な「品」である。ただし、どこのブティックをのぞいても売ってはいないから、身につけるには努力がいる。本を読む。流行語は使わない。人真似をしない-何でもいいから手近なところから始めたらどうだろうか。長い人生でここ一番と言うときにモノを言うのは、ファッションでなくて、ことばではないのかな。(「ことばのお洒落」より)

ここにも書かれているように、向田さんは言葉をとても大切になさる方だ。消えゆく言葉を敢えて文章に残すように努めていたようだ。そのため、私が子供の頃にはよく見聞きしたのに今は死語になっているような言葉がたくさん使われている。それも向田さんのエッセイを好む理由の一つである。「ああ、こういう言い回し、祖父がよくしていたなぁ。」とか、「子供の頃は私もこんな言葉を使って日記を書いていたよね。」と懐かしく思い出すのが心地よい。

だから向田さんのエッセイは、こんな気分で読んでいる。

読書は、開く前も読んでいる最中もいい気持ちだが、私は読んでいる途中、あるいは読み終わってから、ぼんやりするのが好きだ。砂地に水がしみ通るように、体のなかになにかがひろがってゆくようで、「幸福」とはこれをいうのかと思うことがある。(「心にしみ通る幸福」より)

自分の考えていることにぴったりと添うようなことが書かれていると、ますます幸福を感じるのだ。

『行儀よくしろ。』 清水 義範

行儀よくしろ。 行儀よくしろ。
清水 義範 (2003/07)
筑摩書房
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大変失礼ではあるが、わかりやすく言うと清水義範さんは詐欺師のような作家だ。
有名な『蕎麦ときしめん』では、関東の蕎麦、関西のうどんに次ぐものとして名古屋のきしめんについての考察をする。比較文化論的な記述が続き、ついには名古屋は地理的にも歴史的にも日本の中心だというような話になってしまう。笑いながらも、つい「そう言われてみればそうかもしれない。」などと同調してしまったりする。
私が最も好きな『序文』という作品では、英語の語源は日本語にあるという架空の論文の序文だけを書き起こしたもので、「boy」の語源は「坊や」だというような説がまことしやかに述べられている。これには実在の言語学の先生も騙され「そんな説は間違っている。」という怒りの手紙を送ったという話も聞いたことがある。

そんな詐欺師のような作家が書く教育論は、またふざけたものなのだろうと思い、そんなふざけた作品が大好きな私は期待で胸を膨らませて、この本を読み始めた。期待は見事に裏切られた。ひどい本だったのではない。清水さんの小説では笑うことはあっても、感動的な気持ちになったことはない。それなのに、この教育論は、教育について、将来の日本について、日本の子供達について、熱い思いが溢れていて、私はジワジワと感動的な気持ちになっていた。

書き出しは意外なほど冷静だ。学力低下は本当か?本当だとしてもたいした問題ではない。若者のマナーがどうこう言うが若者の方がきちんとしている場面もある。教育問題を学校だけのせいにしてはいけない。・・・教育問題が語られるときに「悪者」となっているものへの擁護から始まる。ちょっと不本意なまま読み進めていくと、しだいに清水さんの真意がわかってくる。
教育問題は、学力だけの問題でない。学校だけでなく社会全体の問題である。教育と文化は強く繋がっている。と言いたかったのだ。

教育で問題なのは学力などよりも、むしろ子供がイライラしていることであるという説は興味深かった。何故イライラしているかの理由にも納得がいく。人間の価値が学歴やお金持ちや有名であることに置かれていることに問題があるという。そうなれる人間は一握りなのに、なれない人間はだめだというように思わされて、イライラしてしてしまうのだから、もっと子供達に誇りを持たせようという。

戦後の「日本が悪かった」式の教育によって日本人は誇りを失ったという意見は、最近よく目にしていた。しかし、誇りを失うことがなぜいけないのか、どんな誇りを持たせればいいのかという具体案を見たことはなかった。その答えにもなっており、私が感動的な気持ちになったのは、次のくだりだ。

 人間の価値は、有名だとか金持ちだということにあるのではなく、ちゃんと美しく生きているかどうか、ということにあるのだ。
 我々はたまたま日本人だから、日本文化の中にあって美しく見える生き方をしていれば、大いに自分を誇ってもいいのである。
 日本文化における行儀のよさを身につけている。
 自分の仕事(役割り)に真面目に、熱心に取り組んでいる。
 卑怯でなく、いさぎよく、逃げない。
 人との約束は守る。困っている人がいれば手を貸す。
 インチキをせず、いつも正直だ。
 ちゃんと自分の責任ははたす。
 ひとに迷惑をかけないようにし、ひとの役に立つことは、可能な限り する。
 そういう人間は美しいではないか。そういう美しさを持った人は、大いに自負を持って生きるべきなのだ。


正にその通り。私たちは外国で、日本人として当たり前のことをしたときに「礼儀正しい。」「節度がある。」「我が儘じゃない。」と言われて、くすぐったい思いをすることがあるが、これこそが日本人の誇りであり、そのことを日本にいる人たちにも気づいて欲しい。日本人としての常識を持っていれば、それだけで誰でも価値のある素晴らしい人間なのだと誇りを持って欲しい。

清水さんは、決して日本人だけが特別すぐれているから誇りを持てと主張しているわけではない。それぞれの国に、それぞれの文化があり、各々が自国の文化を誇るのが当たり前だと仰っている。
その例に挙げられたイランの話、文化を壊す側-テレビ、友達のような先生などについての考察も、非常におもしろい。
難しいことは何一つ語られていないのに、教育の問題点の核心を突いている気がする。

教育問題の解決には、まず一家で一冊この本を読んでもらうことが役立つかもしれない。もちろん子供のいない家にも一冊、である。なぜなら清水さんはこう仰る。

子供のない私だって、この国で大人をやっているからには、この国の教育に関わっている。こういう社会を築いていることが、子供を何らかの方向に導かないわけがないのだ。

ご自身の子供がいないのに、ここまで子供達や日本の将来のことを考えてくださっているということにも、私は感動したのだ。

Appendix

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