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ごあいさつ

今年六月にブログを開設して以来、たくさんの皆さんにご訪問いただき、有難うございました。

記事の内容よりもコメント欄の方が有意義な事が書かれていたり、楽しい話題を提供してくださったり、いろいろなことを教えていただいたりして、拙ブログは本当に読者の皆さんに支えられているなぁと実感しております。良書をお薦めいただいた方々には大変感謝しております。

コメントは書かれていなくても記事を読んでくださっている方々にもお礼申し上げます。訪問履歴などを拝見していますが、これまでごあいさつせずに失礼いたしました。

また私の方から遊びに行かせていただいているブログも、個性的な内容ばかりで、とても勉強になりました。一度もお会いしたことがないのに親しい友人が出来たようで嬉しく思っています。

今年は本当に皆さんにお世話になりました。来年も引き続きよろしくお願いいたします。
それでは皆さん、良いお歳をお迎えください。

milesta


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『飛ぶ教室』 エーリヒ・ケストナー 作/高橋 健二 訳

 飛ぶ教室 飛ぶ教室 / エーリヒ・ケストナー、高橋 健二 他

学校から帰ってきた我が子が「クリスマスって何の日だか知ってる?」と訊ねるので「もちろんよ。ジーザス(イエス)の誕生日でしょ。」と答えると、「違うよ。ギフトの日だよ。」と言う。何て即物的だ・・・と心の中で思っていると、「先生がそう教えてくれたよ。自分が何かをgiveしてもらう(与えてもらう)んじゃなくて、自分が誰かに何でもいいからギフトを贈る日なんだよ。」

キリスト教の素養が無くとも、そんな「贈り、贈られる」精神に感動するのが『飛ぶ教室』だ。クリスマスに、生徒たちが尊敬する先生に贈ったもの、先生が生徒に贈ったものは、他のものには代替えできない素晴らしい贈りものだった。

『飛ぶ教室』は寄宿制の高等中学校を舞台にした友情と師弟愛の物語である。題名の印象とは違い、地に足のついたとても現実的な学校生活が描かれている。現実的であるのは作者のケストナーの意図したところだ。まえがきで、子供の本だからといって楽しいことばかりを書くつもりはないということを宣言している。

 人生の真剣さというものは、お金のために働くようになってからはじまるというものではありません。そこではじまり、それでおわるものではありません。こんなわかりきったことを、みなさんが大げさに考えるようにと思って、わたしはことさらとりたてていうのではありません。また、みなさんをおどすためにいうのでもありません。いや、いや、みなさんはできるだけ幸福になってください!愉快にやって、小さいおなかがいたくなるほど笑ってください。

 ただ、何ごともごまかしてはいけません。またごまかされてはなりません。不運にあっても、それをまともに見つめるようにしてください。何かうまくいかないことがあっても、恐れてはなりません。不幸な目にあっても、気を落としてはいけません。元気を出しなさい!不死身になるようにしなければいけません!


この本を読んだ子は、読まない子よりも、きっと不運や不幸に強い子になるだろう。ケストナーの意図がきちんと伝わるような物語になっているからだ。

ここに出てくる少年は、それぞれ何かしらの不運や不幸を背負っている。欠けているものは、家族、お金、学力、勇気・・・とそれぞれ違う。そして、その克服の仕方もそれぞれにちがう。欠点を自認しながらも長所を伸ばしていこうとする者、欠点を克服すべく大きな勇気をだす者、仕方がないことだと我慢に我慢を重ねた後に救いの手がさしのべられる者・・・。共通するのは、自分の不幸を誰も人のせいにしたりせず、友情の助けも借りながら必死に乗り越えていく前向きな姿だ。
「泣くこと厳禁!泣くこと厳禁!」と、自分に降りかかった不幸に耐えるマルチンの姿には、胸が痛くなるが、今の恵まれている子供達には理解が出来ないかもしれない。せめて、こうした本から想像だけでもして欲しいと思う。

彼らを影で支えているのは、先生方の分別や度量でもある。間違ったことは許さないが人生経験豊かな先生は、時に厳しく、時に温かく、生徒を導いていく。
よその学校との「有史以来の」戦いで学校の規則を破ったときの、“正義先生”の粋な処罰は見事という外ない。
また一人の生徒が数人にからかわれ酷い目に遭ったとき、クロイツカム先生はクラス全員に次のような課題を与える。

「おこなわれたいっさいの不当なことにたいして、それをおかしたものに罪があるばかりでなく、それをとめなかったものにも罪がある。」
と、先生は説明しました。
「この文章をめいめいこのつぎの時間までに五へんずつ書いてこい。」


今の日本の学校で、先生がこうしたことを淡々と言い、生徒が素直にきく姿勢が出来ているだろうか。台詞として言うのは簡単だが、その言葉が生徒の心に染みていくかどうかは、生徒の心持ちや日頃の先生に対する尊敬の念にかかっている。『飛ぶ教室』の師弟関係には、そうしたものがある。

先生や友達に恵まれ、それぞれに悩みがあっても、子供から大人へと自立していく喜びや誇りに満ちている。それに悩むことは無駄なことではない。悩みは勇気や辛抱を学ぶ機会を作り出している。
不幸を背負ってでも、こういう友達、こういう先生に巡り会いたい、そんな気さえ起きてくる。そう思えるのは、彼らが、自分が何をもらえるかより、他人に何をしてあげられるかを考える人たちだからだ。
「クリスマスはギフトの日」という解釈も、悪くないのではないかと思えてきた。

ケストナーは、こんな教えも贈ってくれる。

かしこさのともなわない勇気は、不法です。勇気のともなわないかしこさは、くだらんものです!世界史には、ばかな人びとが勇ましかったり、かしこい人びとがおく病だったりした時が、いくらもあります。それは正しいことではありませんでした。勇気ある人びとがかしこく、かしこい人びとが勇気をもった時、はじめて人類の進歩は確かなものになりましょう。

『名画にみる國史の歩み』 小堀 桂一郎

名画にみる国史の歩み 名画にみる国史の歩み
小堀 桂一郎 (2000/04)
近代出版社
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採り上げるのは二度目になるが、今日はこの本を紹介するのに最もふさわしい日ではないかと思うので改めて紹介したい。なぜなら、この本の根幹を為す七十八点の名画は、昭和八年十二月二十三日今上天皇が皇太子殿下としてお生まれになったことがきっかけとなって描かれたものだからである。

小堀桂一郎氏の解説によると、親王殿下御誕生は国民的な歓びで迎えられ、東京府は記念事業として国民の修養道場の建設を企画した。そこに展示されるべくして描かれたのがこれらの国史絵画であった。
そして、当時まだ完成していなかった明治聖徳記念絵画館が明治の歴史を辿るものであったのに対し、この企画では、

日本帝國と國民の通史に拡大され、奉祝対象である皇太子継宮明仁親王の御先祖である皇祖天照大御神の出現に始まり、当の皇太子殿下御誕生の喜びを以て局を結ぶという連作になることも又極めて自然の発想であった。

このような経緯で描かれた一連の絵画の質が高くないはずがない。しかし、小堀氏はこれを画集と呼ばず、あえて歴史書と称している。その理由は、

収録した総数七十八点の絵画は、國史の中の絵になりやすくて且つ見栄えのする場面や人物に取材して任意に選ばれ、描かれたという性格のものではなく、日本の歴史を語り伝えるのにこれだけは是非必要と思われた人物・挿話を先づ厳しい基準で選抜し、体系的に排列し、それの含む意味と心とを絵画を以て表現せんとした試みだからである。

その体系的に排列された最後の一枚が「皇太子殿下の御誕生奉祝」と題された一枚で、二重橋を背景に御誕生の奉祝に集まった国民の列が描かれている。
この本を最初から見てゆき最後にこの絵に辿り着くと、国民が天皇陛下の御誕生日をお祝いするのは、明仁天皇ただお一人のことをお祝いしているのではなく、皇室をいただく日本が連綿と続いている事へのお祝いの気持ちも包含されていることに気づく。神代の時代から、私たち日本人は、何度天皇陛下の御誕生日を祝ってきたのだろう。今後もお祝いの回数を長く長く重ねていかれるような国であって欲しいと切に願う。


※前回採り上げた記事はこちら

『ひみつのかいだん』 ジル バークレム

ひみつのかいだん―のばらの村のものがたり〈5〉ひみつのかいだん―のばらの村のものがたり〈5〉
ジル バークレム (1997/07)
講談社
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まだ独身の頃、子供もいないのに『のばらの村のものがたり』シリーズの絵本を思わず手にしたのは、その絵に惹かれたからだった。
小さい頃から愛読していた外国の物語、例えば『赤毛のアン』、『大草原の小さな家』、『やかまし村』・・・それらに出てくる欧米の暮らしが文字ではなく、鮮やかな絵で目に飛び込んできた。パッチワークキルトのベッドカバー、花柄のティーポットにティーカップのセット、ケーキやプディング、ジャムやピクルスなどの保存食品、文字で読んで想像していたあれこれが、目の前に、とても美しい色合いで広がっていた。

主人公はねずみたちだけれど、恐らくイギリスの人間の暮らしとそっくりに、四季折々の行事を執り行い、慶事があれば皆でお祝いする。住んでいるのが自然の中だから、より四季を強く感じさせてくれる。

冬至は、日本ではゆず湯に入ったりかぼちゃの煮物を食べたりするので、とても日本的な行事だという印象をもっていたが、この日に最も昼が短くなるのは北半球共通。ヨーロッパにも冬至の行事があるのだ。

イギリスの「のばらの村」のねずみたちは、昔ながらの「冬至まつり」を開催する。
前日から、男の人(ねずみ)たちは飾り付けを、女の人(ねずみ)たちは料理を、子供は詩の暗唱の練習をする。イギリスらしいのは、この詩の暗唱である。オーストラリアの学校でも、詩の暗唱のコンテストに参加したり、授業でもよく詩を朗読したり、詩作したりする。そうしたものを見ていると、英語のリズムは、つくづく詩に合っているのだを感じる。

冬至祭りの始まりに、暖炉にくべる丸太を引く行列がやってくるが、そこでもこんな歌を歌いながらやってくる。

「くりの実やいて ワインをあたため
 カップをみんなに まわそうよ
 まわりにあつまれ 丸太はもえる
 今夜はほかほか あたたかいよ」


そして、ご馳走を食べ、影絵、手品、ダンスを楽しんだ後、子供達-プリムローズとウィルフレッドの二人が一生懸命練習した詩の暗唱をする。

                   冬 至
               冬はみじかく 夜はさむく
           寒さはきびしく この年もおわりにちかい
              日ざしはよわく 風ははげしく
               雪はふかく 空はくらい
        そのときこそ ひげをみがき 家をきれいにかたづけ
           いちばん美しく はなやかな服を着るとき
         なぜなら冬のきびしさはもう とうげをこえたから
           さぁ これから冬がやくそくしてくれるのは
                   それは 春!


二人してひみつの階段を上った部屋で、こっそり考えた演出も大成功。皆が満足して、冬の厳しさの峠を越えたことを実感したことだろう。 地球の裏側には、こんな楽しい冬至の過ごし方もあるのだと教えてもらえる。

『賢者の贈り物』 オー・ヘンリー

最後のひと葉―オー・ヘンリー傑作短編集 最後のひと葉―オー・ヘンリー傑作短編集
オー ヘンリー (1989/09)
偕成社
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クリスマスの短編といえば、この『賢者の贈り物』が思い浮かぶが、短編小説の筋を明らかにするほど野暮なことはないので、筋にあまり差し支えない話を書こうと思う。

キリストが生まれたとき、東方から贈り物を持って来た賢者たちがいると、聖書には書かれている。子供達が学校でやるクリスマスのお芝居やクリスマスカードにも、賢者たちはしばしば登場する。

オー・ヘンリーの『賢者の贈り物』は、クリスマスプレゼントをめぐる心を打つお話だが、題名はキリスト誕生の時の、この故事から付けられている。

 ごぞんじのとおり、東方の賢者たちは、聡明な人達であった-かいば桶の中に生まれたみどりごキリストに贈り物をもってきた、じつに懸命な人達であった。あの人たちが、クリスマスにプレゼントをするということを考え出したのだ。賢明であったから、その贈り物も、もちろん賢い贈り物であった。おそらく、重複した場合にはほかの物ととりかえることができるという、便利なものであっただろう。

これは、物語の中に書かれている「あとがき」のような部分だが、完訳でないと省かれていることがあるので、最後の部分をここに紹介しておこう。

 だが最後にひとこと、どんなすばらしい贈り物をする人びとよりも、このふたりこそもっとも賢明であったということを、現代のもっとも賢明な人びとにむかっていわせていただきたい。プレゼントをやりとりする人びとのなかで、このふたりのような人たちこそ、もっとも賢明なのだ。どこにいようとも、彼らこそはもっとも賢明なのだ。彼らこそ、<賢者>なのである。

本当にそうだ、と頷きながら読んだ。物質的に豊かな社会になればなるほど賢者は減っていくのかもしれない。


※児童書でありながら完訳の『最後のひと葉-オー=ヘンリー傑作短編集-』(偕成社文庫)に、ご紹介した『賢者の贈り物』も収録されています。

 

『若草物語』 L.M. オールコット

若草物語 若草物語
T. チューダー、L.M. オールコット 他 (2004/06)
福音館書店
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クリスマスの朝、長女のメグは緑色、次女のジョーは紅色、三女のベスはピンク、エイミーは青の、美しい小さな本が枕の下に入っているのを見つける。母親から四人姉妹へのクリスマスプレゼント、聖書だった。その頃は聖書が何かを知らなかった私も、姉妹が「毎日少しずつ読みましょう。」と言っているので、大切なことが書いてある本だと理解した。そして、自分だけの色を纏った大切な本がもらえるなんて「うらやましいなぁ。」と強く思った。それ以来、クリスマスプレゼントというと真っ先に「きれいな色の本」を思い浮かべる。

プレゼントの聖書の色がそれぞれ違うように、四人の性格はそれぞれ異なる。私はこの物語を、幼年向けのものから始まり何度も読んだが、読む度に自分を投影する女の子が違っていた。

最初は、ちょっと我が儘だけどみんなにかわいがられる末っ子エイミー。私は初孫で、祖父母にも叔父や叔母にも特別かわいがってもらえたから、年長者に囲まれたエイミーのような「甘やかされた」境遇は馴染みのものだった。

次は、心優しいベス。私は小学校の高学年になるかならないかで、他人への気遣いを忘れてはいけないと学び始めた頃だったのだろう。それに、ベスは姉妹の仲でもっとも女の子らしくて、同じ女の子としては「こうありたい。」という理想像に近い。

高校生の頃だったか、相変わらず自分をベスに置き換えて読んでいたところへ冷や水を浴びせかけたのが、父の一言だった。「おまえはさしずめジョーだな。」ええっ?本気ですか?ジョーといったらベスと正反対のお転婆娘。本が好きっていうのは似ているけれど、男の子みたいで、いたずらで、すぐにカッとなって、考えなしに行動して後で後悔・・・ああ本当だ。まさしくその頃の私のことだ。さすが父上、娘のことをよくわかっていらっしゃる。幼い頃はエイミーだった私が、理想の女の子ベスを飛び越えて、ジョーになっていたのを見逃してはいなかった。

四人姉妹の父親は1年以上従軍先から帰ってこない。その間に、姉妹にはさまざまな事件が起こる。それらの原因や、解決方法にも、姉妹の個性が表れている。母親は彼女たちの個性を見守りながらも、行き過ぎたところはたしなめたり、相談を受けたりしてやる。こうして本人たちは自分の長所、短所に気づいて成長していく。
父親が久しぶりに姉妹に会ったとき、一人一人にその成長ぶりを認めた言葉を贈る。

十代の頃、人は他者との触れ合いの中で様々なことを学び、成長していく。四人姉妹は、そんな時期に、聖書や母親に導かれて健やかに素敵な女性に育っていった。もう子供でない年頃だといっても、放任して良いわけではないと思う。父親や母親や神様が自分のことを「お見通し」だということが、行き過ぎを防ぐ。
我が子たちが、その年頃になったら、余計な口出しはしないけれど「お見通し」だと恐れられる母親になれるだろうか。・・・とうとうジョーを卒業して、四人姉妹の母親に自分を投影する年齢になってしまった。


※本は手元にないので内容は記憶に頼っています。細かいところが違っていたりするかもしれません。

『ゆうびんやのくまさん』 フィービとセルビ ウォージントン さく・え/まさき るりこ やく

ゆうびんやのくまさん ゆうびんやのくまさん
フィービ ウォージントン、セルビ ウォージントン 他 (1987/05)
福音館書店
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以前ご紹介した、とてもきまじめな『ぱんやのくまさん』と同じく、『ゆうびんやのくまさん』もきまじめだ。

クリスマスは郵便屋が最も忙しい時期である。雪の降る中、駅まで小包を取りに行ったり、手紙や小包を配達したり、ポストの手紙を郵便局まで運んだり。
郵便局の中でも仕事が待っている。

ゆうびんきょくに つくと くまさんは、
たかい いすに すわって、てがみや こづつみに、
はんこを おしました。ばん ばん ばん!と
おしました。ばん ばん ばん!


忙しかった一日が終わると、あたたかいお風呂に入って、それから暖炉の前でご飯を食べて、

くまさんは、「ぼくに きた こづつみには、なにが はいっているのかな」と、かんがえました。

小包をじいっと見つめて真剣に考えているくまさん。だれも見ていないのに決して開けたりせずに、枕元にきちんと置いてベッドに入る、節度のあるくまさん。

真面目に働くくまさんの地味な一日のお話だけれど、クリスマスの近づいた町の様子や クリスマスの飾り付けやクリスマス・パイを用意している配達先の家の様子など、華やかな場面もちらりと覗ける。こぢんまりしたくまさんのお部屋もツリーやカードで飾られている。

それから、郵便局が家族経営だったり、仕事の合間のモーニングティーの習慣、郵便局で親の敵のように力を込めて「ばん ばん ばん!」と押すスタンプの音・・・これらは、今の私たちにはとても身近なもので、くまさんの住んでいる英国とオーストラリアはどこかで繋がっているんだなぁと感じさせられる。

くまさんのプレゼントは何だったのだろう?私はあれじゃないかと思っているけれど、それは秘密。

『愛の一家』アグネス・ザッパー 作/山口 四郎 訳

20061212191100.jpg 愛の一家 / アグネス・ザッパー、山口 四郎 他

クリスマスの物語というと私はこの本を思い出す。
母がある時、古本屋からこの本を買って帰ってきた。特に思い入れがある本だというわけでもないらしく、本当にきまぐれに買ってきた。私が希望した本でもないし、古本だし、さほど大事な本という位置づけではなかったのに、なぜか時々読みたくなって何度も読み返した。最後に読んだのはもう20年以上も前だが、クリスマスというと、この物語のいくつかの場面が目に浮かんでくる。もう本は手元にはないが、思い出せることを書いておこう。

父親は音楽の先生で七人の子供がいる大家族だが、貧しいので、よそのお宅の二階に間借りしている。音を立てないように、子供達がそおっと上り下りしていた。子供達の中に女の子の双子がいて、ちょっとうらやましかった。

クリスマスが近づいて、クリスマスツリーを売っている屋台だか市場で、この一家の小さい男の子がその店を眺めている。ツリーをお客さんのところに運ぶ仕事をしている子供達の一人だと間違えられて、男の子はツリーを運ぶ羽目になる。大きなツリーを背中に担いで小さな男の子が歩く姿。ヨーロッパにはツリーを売る出店が出るんだぁ、とか、小さな子供が力仕事をするんだなぁ、というような事を思ったのだろう。この場面は、とても印象に残っている。

それから、クリスマスプレゼントがツリーの下に置かれているという風習も、この本で知った。
そこでは、大きいお兄ちゃんたちがスケートをプレゼントにもらっていた。私もクリスマスプレゼントにローラースケートをもらったことがあるが、彼らのはアイススケートで、寒い国との違いを知った。たしか、バイオリンをもらった子もいた。音楽の先生のうちだからかもしれないが、貧しいのにバイオリンというのにびっくりした。

この一家は、貧しくても仲良く品行方正に暮らしている。ハラハラドキドキするわけでもなく、大きな感動があるわけでもない。けれども、読んだ後に、こんなに温かい気持ちになる本は他にはなかった気がする。なぜかと聞かれても説明ができない。題名通り「愛」に溢れた人たちの物語だからなのかもしれない。

この間、我が子が「うちは“ゆだやか”だよね。」と言った。う~ん、気持ちはわかる。(笑)ゆったりしていて、おだやかという意味だろう。この本の一家は我が家以上に「ゆだやか」だ。
何度も繰り返し読んだのは、その「ゆだやかさ」に浸って、温かい気持ちが味わいたくなるからだったのだと思う。


※母が買ってきた『愛の一家』は、装丁がもう少し厳めしい感じでした。出版社も違ったと思いますが、同じものは見つからなかったので、こちらの写真を使いました。

『日本人の意識構造―風土・歴史・社会』 会田 雄次

日本人の意識構造―風土・歴史・社会 日本人の意識構造―風土・歴史・社会
会田 雄次 (1972/01)
講談社
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会田雄次氏は『アーロン収容所』では、ご自身の体験を軸に各国の国民性を書かれていた。それぞれの国の特徴を知ることが出来たが、日本についてどのようにお考えなのか、もう少し深く知りたくなって、この本を読んだ。

日本の歴史や古くからの慣習、それらの欧米との比較、戦後の日本における思想の変遷などに基づいた日本人論は、さまざまな角度からの視点で、説得力のあるものになっている。

私は主婦であるので、こんな例がわかりやすかった。(少々長いので要約する。)

日本には襖(ふすま)という物があるが、これは鍵もかからず、ノックをするという決まりもなく、「察し」と「思いやり」がなければ、うまく機能しない。黙って開けても良いのか、声をかけるのか、さりげなくこちらに人がいるのを気づかせるかを「察し」て、相手の都合を「思いやる」ことを要求される。この「察し」と「思いやり」は日本独特の習慣で、外国人にはできない。

例えば、お嫁さんが小さい子にまとわりつかれながら夕飯の準備をしているところへ、疲れた様子のお姑さんが帰ってきたとする。お嫁さんは「子供を見てて欲しい。」と思うが、疲れている様子を察して、横になっている姑さんにかいまきをかける。お姑さんは、かいまきをかけてくれたことに気づいて、少し休んだ後で、子供を外に連れ出す。
これが、欧米ではどうなるか。お嫁さんが「子供を見ていて欲しい。」と言い、お姑さんは「疲れているから少し休みたい。」と答える。お嫁さんが「では少しの休みの後、手伝ってくれるか。」と聞き、お姑さんも「間違いない。」と答える。すべての気持ちを言葉に出して、話し合いで決めていく。

戦後の日本は民主化による家父長制度の徹底的破壊と共に、この「察し」と「思いやり」による人間関係まで否定されてしまったという。だから将来の日本では、お嫁さんとお姑さんの間に従来の日本的なやりとりは期待できないのだが、かといって欧米的なやりとりになるのかといえば、それも不可能だと書かれている。

・・・なぜなら、日本では、自我の主張は教えられているが、他人の自我の主張と衝突したとき、それを妥協させるという訓練はまったくなされていないからである。学校や社会における日本の集団思考ほど、無意味さと喜劇性に満ちたものはめずらしい。
 その結果、「お姑さん、ちょっと手伝って」ここまでは若い連中はすぐ口に出せるようになった。だが、本当の問題は次の段階まで行くかどうかである。「今つかれて休んでいます」「それぐらいのこと自分でやりなさい」そういう答えがなされたときは、それでおしまいだ。嫁が気が弱い性格なら、それで参ってしまう。気が強いと、ふくれてしまう。それで対話は終わりというのが、戦後の得たすべてなのである。


これを読んで、なぜ最近は子供も大人も「キレやすい」のかがわかったような気がした。

また私が普段「地球市民」とか「世界市民」という言葉に薄気味の悪いものを感じている理由も、わかりやすく提示してくれていた。

 ヒッチハイクをやり、皿洗いや掃除をやりながら、無国籍人として生きたから、一人前に生きた、国際人として生きたといえるのか。埒外者として、乞食として生きのびるだけなら、アメリカであろうがイギリスであろうが、いささかの厚顔ささえあれば、なんの人間的能力も要しない。
 そんなのは国際人とはいえない。一人前の市民として、それで妻を持ち子供を養い、子供達に一人前の教育を受けさせる程度のことをしてから、おれは国際人だといってほしい。
 「国家」を捨て、いかなる国家からも疎外されて「生きる」ことがどういうことなのか。
 そういう実感的反省なしに、戦後の民主主義がいわゆる民主主義者によって国家を無視し、ナショナリズムを否定して説かれてきた。そこにわたしは今日の虚妄の世界をもたらした最大の原因があると考えざるをえない。


会田氏は、ここにも書かれている戦後の「ナショナリズム否定」について、何度も嘆いていらっしゃる。では、会田氏の仰る「ナショナリズム」とはいかなるものなのか。

 それは日本人同志の、互いに肌のあたたかみを感じるような連帯感であり、それにもとづいた日本の国の独立の感覚であり、広義の文化統一体としての共同感覚である。そしてなにより根本的には、この共同感覚体である日本というものへの誇らかな賛歌と未来への高らかな希望の歌である。そうした共同体への献身を第一義とする精神である。私の言葉でいえば、日本の、外部からの圧迫による団結を経験する歴史をほとんど持たない日本人の、独特なナショナリズムである。そのすべてを戦後の日本は、軍国主義への道として無惨に封殺してしまったのだ。

この文章が書かれたときから、もう40年も経っている。家族関係の希薄さ、教育の荒廃、こうしたものに気づき、やっと国を上げて立て直そうとしている矢先に、「愛国心は軍国主義へ繋がる」と騒ぎ立てる人達がいる。その論理で日本がどれだけ大事な物を失ってきたか、そろそろ目を醒ましたらどうかと思う。

『大どろぼうホッツェンプロッツ』 オトフリート=プロイスラー・作 中村 浩三・訳

大どろぼうホッツェンプロッツ 大どろぼうホッツェンプロッツ
オトフリート=プロイスラー、中村 浩三 他 (1990/05)
偕成社
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うちの下の子は今、第一次「箸が転んでもおかしい年頃」だ。そんな時にこの本を読んでやったものだから、げらげらげらと笑いすぎて、とうとうお腹が痛くなったらしい。

「大どろぼう」などという題名がついているが、このどろぼうホッツェンプロッツの盗んだ物はコーヒー挽き。家の前のベンチでコーヒー豆をごりごりと挽いていたおばあさんから奪い取ったのだ。
コーヒー挽きは二人の少年カスパールとゼッペルからの贈り物だった。二人はすぐにコーヒー挽きを取り戻す作戦を練る。

少年たちはお互いの帽子を取り替えて変装したつもりになっていたけれど、ホッツェンプロッツに捕まってしまう。そして一人は大魔法使いツワッケルマンに売り渡される。
大どろぼうも大魔法使いも、ちょっと間が抜けていて、少年の一人カスパールは機転が利いて、おまけに帽子を取り違えたことが役に立って、とうとう大どろぼうと大魔法使いが大喧嘩。ここに至るまでにハラハラドキドキの攻防戦があったけれど、この喧嘩は悪党同士の喧嘩だから、聴いている方はホッと安心して「げらげらげらげら。」と笑い転げていた。

そして最後に、おまわりさんのところへ少年たちが行ったところでも、「げらげらげらげら。」と、もうひと笑い。このおまわりさんも、いばっているわりには、この捕り物には何の手柄も立てられず、それでも威厳を失わず、なぜか憎めない。

この「げらげら」話には、私の弟も子供の時にやられてしまって、全く読書に関心がなかった子だったのに、この本を読んでからはすっかり読書好きに変わった。
うちの子には、そんな兆候は見られないけど、楽しんでいたからまぁいいか。

『はじめてのキャンプ』  林 明子

20061206124937.jpgはじめてのキャンプ / 林 明子

我が子の一人が今日からスクールキャンプに行った。本当は去年が「はじめてのキャンプ」だったけれど、当日に熱を出して行かれなくなった。だから、今回が実際のところ「はじめてのキャンプ」になる。一年経って成長したのか、前回は私が手伝った準備をさっさと自分でやってしまった。キャンプの鉄則は何でも自分でやること。準備段階は合格だね。

さて、本の中ではじめてのキャンプに行くのは、幼稚園か一年生くらいのなほちゃん。隣のうちのともこおばさんが、何人かの大きい子供達をキャンプに連れて行くと聞いて、なほちゃんも行きたいと言う。

「ちっちゃいこは だめ!」
と、おおきいこがいいました。
「ちっちゃいこは おもいにもつを もってあるけないし、」
「ちっちゃいこは すぐなくし、」
「ちっちゃいこは ごはんをたく まきを あつめられないし、」
「ちっちゃいこは よる、くらいとこわがるから だーめ!」


なほちゃんは怒って、全部ちゃんと出来ると宣言する。

「じゃ、くらいそとに ひとりで おしっこに いける?」と、おばさんがいうと、
「わたし、くらいそとに ひとりで おしっこに いける!」といいました。
すると おばさんは、なほちゃんにも みんなと おなじかみを くれて、
「なほちゃんも つれていきますよ」
といいました。


宣言通りなほちゃんは、よく働き、泣くのもがまんした。怖い話を聞いた後、みんなは寝てしまったけれど、なほちゃんはおしっこに行きたくなった。おばさんを起こしてみたけれど、ぐーぐー寝ているみたい。しかたなく一人で外に這いだしていく。

この絵本は、色数が少ない。昼間は黒と黄色の二色。スイカを食べるときだけ赤が入る。夕方は水色とグレーに、キャンプファンヤーの赤。その後の夜の様子は特に、色数が少ない効果がとても高く、その場の気配がこちらにも伝わってくる。しーんとした感じ、懐中電灯の明かりでは照らし切れない外の広さ、星のまたたき、そして、なほちゃんが怖い気持ちを思いだしたときに見たもの・・・。

急いで逃げ帰ったテントでは、おばさんが「えらかったわ。」と褒めてくれた。翌朝、なほちゃんの顔のなんと誇らしげなこと!

うちの子はもう「ちっちゃいこ」ではないけれど、やはり誇らしげな顔で帰ってくるのだろう。なにしろ「はじめてのキャンプ」だから。

『うちにかえったガラゴ』 島田 ゆか

うちにかえったガラゴ うちにかえったガラゴ
島田 ゆか (2002/06)
文渓堂
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「日本に帰ったら何をしたい?」と子供達に聞いたら「温泉に行きたい。」と答えたことがある。こちらには温泉はなく、街中に時々“SPA”という看板があるが、小さなバスタブにハーブや香油入りのお湯が入っていたり、足湯だけだったり、要するにエステの延長線上にあるようなものらしい。こちらの人達は「湯船に浸かる」という習慣があまりない。だから私たちの借家も、お風呂の追い炊きなんてもちろん出来ないし、ボイラーは小さくて家族全員が湯船に浸かるだけのお湯は供給されない。ああ、私もたっぷりのお湯にいつまでも浸かるという贅沢をしたい。

ガラコは鞄売りの行商をしているけれど、寒さが苦手なので、雪が降る前に家に帰ってくる。旅の疲れを取るのには温かいお風呂が一番。鞄屋のお風呂はバスタブも鞄型。お湯を入れていると、次々と訪問者が現れる。

まずは「たびするざっかやのとらちゃん」。あれれ?この子は『バムとケロのおかいもの』の市場でほっぺたに売り物を入れて商売していたハムスターじゃない?ハムスターなのに「とらちゃん」ていう名前だったんだ~。そして張り子でできたみたいな落花生の殻を被った「ピーナツうりのらくちゃん」。そういえば、この子も市場でピーナツを売っていた。
・・・次々とやってくる友達を石鹸の泡いっぱいのお風呂に入れてやる。お風呂におもちゃもいっぱい入れて、ジュースを飲んで、あらあらピーナツを湯船に浮かせながら食べている子も・・・。

お風呂の後は、「こみみさん」が持ってきたカレーをみんなで食べる。ここでのインテリア、テーブルセッティングがステキ!まるでAlessiの店内で食事をするみたい。「ふたごのヤモリのヤモとゲッコ」のような小さい友達のために、テーブルの上にも小さなテーブルと椅子、食器が用意されている。私もこのパーティーに参加したいなぁ。

「カンパーイ。」と食事を始めようとしたら、またまた、だれかが扉をトントン!最後のページには、お客さんの後ろ姿しか描かれていないけれど、・・・これは間違いなくあの二人組だ!やっぱりね。




Appendix

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