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『絵てがみブック』 杉浦さやか

絵てがみブック 絵てがみブック
杉浦 さやか (2002/04)
角川書店
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生まれ育った東京から北海道に行くことになって祖母に「もう会えないのね。」と泣かれてしまった私は、どうにかして安心させなくちゃと思い、北海道での出来事を手紙に書くことにした。

ところが予想外のことが起こった。北海道には、東京人が見たこともない物や、やったことがないことが多くて、説明が難しい。例えば雪かきの様子は、その服装や道具、シャベルの持ち方のコツ、どこにどのように雪をなげるか(捨てるか)など、どれをとっても言葉では表しにくい。まだデジカメの時代でもなくイラストでの説明が必要だった。ところが私は絵が大の苦手。それでも描いて伝えなくちゃ!と思うようなカルチャーショックが次々と起こり、月に1回は絵手紙を描いた。時間をかけて苦労して描くので、祖母だけに送るのは勿体ないとコピーを友人達にも送っていた。

何年か経って、この『絵てがみブック』を発見し、あの時この本が手元にあったらなぁと思った。
絵心ゼロの私にもわかりやすく、最初に紙や画材の説明がかわいらしいイラストで描かれている。へぇ、プロの人はこんなに道具を使い分けているんだね。そして、どんなことをどんな風に描くかの例・アイデアがたくさん載っている。

杉浦さんの個性が、とても私の好みに合っているところがいい。イラストがシンプルで、いろいろなことを説明するのにはぴったりだし、杉浦さんの“描きたい”と思うことと私の興味の対象が似ている。
この本の中に「巣鴨とげ抜き地蔵(通称おばあちゃんの原宿)のカッコイイおばあちゃん」が描かれていたが、私も「○○町のベストドレッサー(おばあちゃん部門)」という企画でおしゃれなおばあちゃんを採り上げた。
他の著書にはベトナムでへんてこな雑貨を探し歩いたと書いてあったが、私もタイで友人と「へんてこな雑貨探し競争」をした。
描きたいと思う物は同じなのに、イラストの出来はなぜこんなに違うのだろう。

下手な絵だったけど、絵手紙を描いていて良かったと思う。
一つには、送った相手が喜んでくれたこと。デジカメとパソコンで手紙を書くようになってからも「あの手描きの手紙、良かったよね~。」と友人に言われることがある。下手でも心を込めれば伝わるんだ!
もう一つは、絵手紙に描くぞ!と思うと、何にでも興味が沸き、よく観察したり味わったりするようになる。正直言って都会暮らしに慣れていると、北海道での暮らしは不便だし、寒いし、退屈だ。それでも「違いを楽しむ」ということに徹すると、あれあれ不思議、北海道の生活は、自然が身近にあり、地域社会が機能していて、おいしいものを堪能できる魅力的な暮らしに一転する。

「絵手紙」というと、野菜や花や風景を筆でさらさらと描き、気の利いた一言を墨で書いて・・・というのが思い浮かぶけれど、題材も画材も紙も画風も本当は自由。この本を覗いたら、それがわかる。私だってコピー用箋と鉛筆とサインペンだけで描いていた。絵手紙は楽しい!

 
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『夏草冬涛 』 井上靖

夏草冬涛 (下) 夏草冬涛 (下)
井上 靖 (1989/05)
新潮社
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『夏草冬涛』と聞いただけでドキドキしてワクワクして、平常心ではいられなくなってしまう。私の中学・高校時代は、ここに出てくる少年達に憧れ、追い付き、仲間に入れてもらいたいと焦がれ続けていた。自分が「少年」でないことが恨めしくもあった。

中学(旧制)に一番で入った洪作が一級上の自由奔放な文学少年達と出会う。その魅力に取り憑かれ行動を共にしていくうちに、成績は下がるが、何とも逞しく“ずぼら”になっていくところが痛快である。文学少年と言っても、本ばかり読んでいる青白い堅物でないところが最大の魅力である。

上級生の一人、藤尾が仲間にラーメンをご馳走する。もちろん学校では禁止されている行為である。藤尾は裕福で甘やかされているが、大人っぽかったり、先生の物真似が抜群にうまかったり、不思議と人を惹きつけるものを持っている。お礼を言う後輩に答えたのは木部。運動神経が抜群の上、歌も詠む、器用で敏捷な少年だ。

「ラーメンなら、いつでもご馳走するよ。つけだから、ただみたいなもんだ」
木部が言った。
「つけ、つけって、簡単に言うなよ。みんな俺んとこについて来るんだ」
藤尾が言うと、
「お前が払うんじゃなくて、親父が払うんじゃないか」
「いいや、俺が払う。親父が払うんじゃないんだ」
「お前が払うにしたって、もとは親父の金じゃないか。豪そうなこと言うな」
「詮じ詰めれば、そういうことでござる」
藤尾は言った。


こんなユーモラスでさらりとした会話がここかしこに出てきて、言葉のやりとりの妙を感じる。洪作がこの仲間に受け入れられたのは絶妙な会話のセンスがあったからではないだろうか。いかめしく笑顔を見せたことがない自分の祖父との会話でも、怒らせない程度にずけずけと物を言って楽しんでいるところがある。成績が不振で祖父から叱られ「どこそこの子は勉強ばかりして困ると言っていた。」と聞かされても動ぜず

「おじいさんと反対だな」

と応酬している。このセンスが上級生達の中に入っていくのに役立ったのだと思う。

少年達の行動がまた突飛でいかしている。藤尾が仮病で休んでいるところへ皆で訪問し、屋根伝いに外へ出て砂浜でかけっこをした挙げ句、藤尾は足を痛める。その時の仲間同士の駆け引きがまた“ずぼら”でおかしいが、ここで紹介しては楽しさが半減するので控えておこう。
かと思うと、仲間で旅行をするに当たり木部が歌を詠む。

いざ行かむ、行きてまだ見ぬ山を見む、眼に甘き山は青空にあり

ただの不良でないところが魅力的なのだ。
こんな彼らに焦がれ続けていた。

大学時代、母から言われた言葉。
「あなたは、やることが突拍子もなくて、どうしてこんなになっちゃったのかしら・・・。」
洪作も祖父や親戚に、これに近いことをよく言われていた。

社会人になって先輩からこんなことを言われた。
「何の苦労もしないで、うまいこと生きてるよなぁ。それなのに妙に堂々としてて、癪だなぁ。」
洪作が上級生の金枝から下された評価に似ている。「褒められたのか、けなされたのか判らなかった」ところもそっくりだ。

主人がかつて、笑いながら指摘したことがある。
「なんで物を落としたり何か失敗すると、『うぇっ』って言うの?おかしなこと言うんだなぁ。」
ああ、これは藤尾の口癖ではなかったか・・・。

彼らを真似て(←人のせいにして!)学業をおろそかにしていたから「あ~、もっと勉強しておけば良かった。」と思うことも多いけれど、人からこんなことを言われる度に内心喜んでいる私は、まだまだ彼らに焦がれているらしい。

『にっぽんのかみさまのおはなし』 いずもい あき

にっぽんのかみさまのおはなし にっぽんのかみさまのおはなし
いずもい あき (1999/10)
産経新聞ニュースサービス
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子供達の通うオーストラリアの公立学校では、週に一回宗教の時間がある。初め、いくつかの宗教に分かれて授業を行うと聞いて「神道は無理だけど仏教はあるのかな?」と思ったのは甘かった。多民族国家ではあるが国としての宗教は「キリスト教」。永住権をもらうときにも、聖書の上に手を置いて誓いの言葉を述べるという国なのだから。基本的には英国教会で、ほとんどの生徒がそのクラスに行く。カソリックやバプティスト、エホバなといくつかのキリスト教系宗派が、別のクラスを与えられる。それで終わりだ。イスラム、ユダヤ、ヒンズー、仏教、神道などにクラスは用意されていない。もちろん、宗教の自由が保障されているから、どのクラスにも参加しないという選択肢がある。

宗教の授業に参加しない子供は、自由時間となり遊んでいてもよいことになっている。普段、自由時間だというと大喜びの下の子は、なぜかこの時間は「本を読む。」と言って、しばしば『にっぽんの かみさまの おはなし』を持っていく。誰からも「日本の宗教の勉強をしなさい。」と言われたわけでもないのに。

『にっぽんの かみさまの おはなし』は、日本画家の出雲井晶さんが描かれた絵本である。文字の読めない子供でも、何度か読んでやれば絵を見て思い出し、楽しむことができるだろう。
誰もが知っているあまてらすさまのお話や、やまたのおろち、いなばのしろうさぎなどのお話を織り交ぜながら、神様の系譜が語られていく。いざなみ・いざなぎさまの生み出した、あまてらすさま・すさのおさまの姉弟、その孫の世代のおおくにぬしさまやににぎさまが地上におりていらして、ににぎさまの子供がうみさち・やまさち。神様達はみな繋がっていることがわかる。そして

このように おそらの しあわせのかみの こどもが
やまのかみの こどもと けっこんして
その こどもは うみのかみのこと けっこんして

と いうことが
くりかえし つづいてきて
あなたが いま ここに いるのですよ。
だから あなたは しあわせの くにの
しあわせの こども なのです。


と結んでいる。神様の系譜は、私たちに繋がっていたのだ。
こちらに来てキリスト教の話を聞く機会が増えたが、いろいろと聞いてみると神道との違いはここだと思う。キリスト教の神は人間とは切り離された全知全能の唯一神だが、日本の神々は私たちの祖先なのだ。

うちの子達は、祖父母や曾祖父母のことを聴くのが大好き。時には「おばあちゃんの、おばあちゃんの、おばあちゃんて、どんな人だったの?」と尋ねて、私を困らせる。この本には、そのまたおばあちゃんの、おばあちゃんの・・・・と辿っていった先の人達のことが書いてある。そう思って読んでいるのかもしれない。


※日本の神様関連のお勧めサイト
◇古事記を愛し神々のことを熱く語るMerge Voicesさんの「古事記と日本人」シリーズ
◇神道や人生のことををわかりやすく教えてくださる田舎の神主の学び舎さん
◇出雲井晶さんの「日本の神話」伝承館HP 出雲井さんの描かれた神話の絵を見ることができます。

絵本では物足りない子供、日本の神話初心者の大人にはこちらがお勧め。

『木の教え』 塩野米松

木の教え 木の教え
塩野 米松 (2004/07/31)
草思社
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木は本当にいろいろなことを教えてくれるんだなぁと、感心してしまった。この一冊で、木の性質、伝統や技術の伝承のこと、環境問題、果ては教育問題までを知り、考えることになる。子供でも読める平易な文章に込められている情報の数々は大変価値あるものだ。

出だしの「木は二つの命を持っています。」が、全編を流れるテーマである。植物として生えている木は誰もが知っているが、
「木は伐り倒された後に木材としてのいのちを得ます。」
と書かれると、伐られていのちを得る?と不思議に感じる。しかし、読んでいくうちに、この「木材としてのいのち」が非常に大切なものであることがわかる。

木は木材になっても、生き物のように伸びたり縮んだりする。生えていた時の条件で、その動きが違う。そうした木の性質を生かして建物を造ると、長持ちがして修繕もしやすくなるという。そうして、樹齢千年の木を木材として千年利用できれば、建物を建て替えねばならなくなった時にちょうど樹齢千年の木が育っているから、資源としての木を失うことはないという理屈になる。

この本には、木の性質とそれを生かして建物や船を造る様々な技術が、とてもわかりやすく解説されている。今日、私のような素人にもわかるように解明されている技術は、昔の人々が、いろいろと試しては、木の種類、木の部分、向き、伐り方、削り方など、工夫に工夫を重ねて、一番良い方法を編み出してきたものだ。これが伝統である。老船大工が接着剤を使わずに伝統的な手法で舟を造り続けている理由として次の3つを揚げた。

・発明されてから数年しか経っていない接着剤より、何代にもわたって確認されてきた技術は、こうすれば安全という確証がある。(経験による安全の確証)
・新しいものを追いかけて、木を生かす技術が消えて忘れ去られてしまったら、後になって昔の方が良かったと言っても遅い。(技術の伝承)
・解体修理ができる。(資源の有効利用)

なるほど、伝統的なやり方の方が良いように思える。しかし現実は、木の癖も何も関係なく、木材は機械で裁断され、木の性質で建物を組むなどという手間はかけず、壊れれば修繕せずに解体してしまうようになってしまった。全ては効率重視のためだ。

このまま、木の性質をよく見て物を作る人達が消えてしまってもいいのだろうか?木材としてのいのちの与えられ方を知ってしまうと、この技術を守らなければならないという思いに駆られる。
伝統には説得力がある。伝統は一朝一夕にはできない。簡単に無くしてしまって良いものだろうか?

オーストラリア人から「日本人は木と紙でできた家に住んでいるんでしょ。」と言われ、ちょっと馬鹿にされたようで嫌な気持ちだった。だけど日本には、若い国オーストラリアの及ばない古くからの伝統と、不器用なオージーにはきっとできない技術があるのだ。今度同じことを言われたら、胸を張って「そうよ。すごいでしょう?」と答えよう。


※この本は、本を読もう!!VIVA読書!さんから教えていただきました。日本から取り寄せる価値のある本でした。ありがとうございます。

※「伝統って素晴らしい!」と思った方は、新・へっぽこ時事放談さんの「伝統文化に込められたご先祖の叡智」もぜひご覧ください。

※塩野米松さんは、以前ご紹介した絵本『なつのいけ』を書かれた方でもあります。

『高麗奔流』 深田祐介

高麗奔流 高麗奔流
深田 祐介 (1997/04)
文藝春秋
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韓国で北朝鮮の工作員が9年ぶりに逮捕されたという。もう盧武鉉政権下の韓国は北朝鮮と戦争をしていたことなど忘れてしまったのかと思っていたから驚いた。でもよく考えれば忘れるはずがない。北朝鮮がソウルに向けて掘った秘密のトンネルが韓国側に発見されて以来、観光名所となっており、隠すことなどできないのだ。

そんなトンネルがあることを知ったのは、数年前に読んだ『高麗奔流』によってである。小説ではあるが、北朝鮮の国際社会での裏工作、軍事政策について、かなりの部分が取材による裏付けがあるそうだ。主人公の在日コリアン女性の活躍ぶりはフィクションであるにしても、舞台となっているものの全部が作り話ではないというところが恐ろしい。

北朝鮮とアフリカとの関係。実際にトンネルが完成していたらどのようなことが行われたのか。この本を読むまでは、想像もしなかったことだ。

著者の深田祐介さんは一時期『新東洋事情シリーズ』で、東洋各国の新鮮な情報を次々とリポートされていた。(最近はこのシリーズを見かけないが。)中国を初めとするアジアの経済的盛衰を、幅広い人脈を通じて取材し、マスコミより半歩進んだ「東洋事情」を教えてくれていた。その情報網を駆使して、北朝鮮事情を調べ上げたのであろうか。国際社会での北朝鮮の立ち位置が、ニュースに表れるものだけでないことがわかる。

ストーリーはエンターテーメント性が高く、韓国でなぜ北朝鮮工作員が暗躍しているの?という朝鮮情勢初心者にも、知識のある人にも面白く読める本だと思う。


※韓国で北朝鮮工作員が逮捕されたニュースはこちら

※1978年に韓国軍が発見した第3南侵トンネルの映像はこちら

『くまの子ウーフ』 神沢利子・作 井上洋介・絵

くまの子ウーフ くまの子ウーフ
井上 洋介、神沢 利子 他 (2001/09)
ポプラ社
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ウーフはくまの子だけど、あのくらいの歳の男の子の考えそうなこと、やりそうなことばかりしているから、近所の男の子のように親しみがわく。好奇心旺盛で、質問ばかりしていて、正義感や優しさももっていて、だけどちょっと恐がり。
そんなウーフを温かく見守り、いろいろなことを丁寧に説明してくれるのがお母さん。私もウーフのお母さんのようになれたらなぁ。
お父さんは物知りで、何でもウーフに教えてくれる。ウーフに自信を与えてくれる。
ウーフ一家はくまの家族だけど、こんな理想的な親子関係があって、ウーフが外で何かあっても家に帰れば安心できる。すばらしい一家だ。

たとえば、「さかなになりたい。」と思ったウーフがふなに修行の方法を教えてもらう。最後に舌を引っこ抜くんだと言ってふなが口の中を見せた途端に、ウーフは仰天して逃げ帰る。

「川にへんなやつがいたよ。そのさかな、口の中がからっぽなんだ。したをぬいちゃったんだ。」

お母さんは笑いながら

「さかなははつみつをなめなくてもいいから、したはいらないの。はじめからしたはないんですよ。」

それを聞いて、ウーフは恐怖から解放され、「はちみつをなめられるくまの子でよかったなぁ。」と思い直す。ああ、理想の母親だ!


りすやねずみから「くまはねずみ百ぴきぶんの食べ物をたべてずるい。」と言われたウーフは、お父さんの力強い仕事ぶりを見てハッと思いつく。

「くまは百ぴきぶんたべるから、百ぴきぶんはたらけば、いいんだ。そうだよね、おとうさん。」

おとうさんの答えはこうだ。

「いいんだよ。ねずみは、ねずみ一ぴきぶん、きつねはきつね一ぴきぶん、はたらくのさ。だれのなんびきぶんなんかじゃないんだよ。おとうさんはくまだから、くまの一ぴきぶん。ウーフなら、くまの子一ぴきぶんさ。みんなが一ぴきぶん、しっかりはたらけばいいんだ。・・・」

ああ、理想の父親だ!


他人から教えられることもよくある。
むかしはかねもちだったが、かねをいれたかばんをおっことして、いまじゃ「もんなし」のこがね虫がウーフに忠告する。

「おまえさんも、おっことしたり、なくしたりしないものだけもってればいいのさ。」

ああ、蓋し名言だ!


家族や、友達や、よそのおじさんやおばさんとの交流で、疑問が沸き、自分で考え、教えてもらい、また新たな疑問が沸き・・・こうしてウーフは成長していく。
家の中でゲームばかりしている子供達よ!家族と話そう!友達と遊ぼう!よその人の言葉にも耳を傾けよう!やり方がわからなかったらウーフを手本にね。知ったかぶりは禁物だよ♪

『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』 辺見じゅん

収容所(ラーゲリ)から来た遺書  文春文庫 収容所(ラーゲリ)から来た遺書 文春文庫
辺見 じゅん (1992/06)
文藝春秋
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あの敗戦の8月から数えて丁度9年後にシベリアの収容所で亡くなった山本幡男氏の遺書を、仲間が手分けをして記憶したり洋服の縫い目に隠して持ち帰り、家族の元に届いたのが昭和62年、何と戦後42年も経ってからである。

昭和20年8月15日で戦争は終わって、直ちに日本は平和への道を歩んできたように思ってしまうが、それから先も日本はアメリカの占領下にあったし、戦地から日本に帰るまでの間に命を落とした人達もいる。ロシアでは60万人とも言われる人々がシベリアの収容所に送られ、厳寒の中過酷な労働を強いられて、7万人以上が亡くなったという。

この本には、シベリアの収容所での生活が詳細にわたって書かれている。自由を奪われ、食料は生きていけるかどうかのぎりぎりの量しか与えられず、労働のノルマを達成できなければ更に減らされる。こんな生死の境目のような日々を、希望を捨てずに過ごした日本人たちがいた。自分の力では何ひとつ自由にならないように見える収容所生活だが、そんな中からも自由になるものを見つけ出し、仲間たちにもその術を教えて励まし続けたのが山本幡男氏である。自由になるもの・・・それは頭の中である。物を考え、言葉を駆使して何かを表現することは、誰にも妨げることはできない。

文学とか教養というものは、実社会では「何の役に立つのだ?」という目で見られがちだ。裕福で余裕のある人の道楽ではないかと思う人もいるだろう。しかし、それとは正反対の状況-物質的なものが最小限しか与えられない極限状態の中で、生きている喜び、生きる希望を捨てずにいられるのが文学や教養の力であったことを、この本は教えてくれる。
そして、それだけの教養を持つ日本人が戦時中にはたくさんいたのだということも知らされる。今の私たち日本人が、同じようにシベリア抑留の憂き目にあっていたなら、為すこともなく夢も希望も失い、命を落とす人の数はもっと多くなるかもしれない。

山本氏のおかげで精気を取り戻すことができた収容所仲間が、必死の思いで、山本氏の遺書を日本に持ち帰ったのは、本人たちにしてみれば「当然の恩返しだ。」という思いがあったのかも知れない。彼らのうちの何人もが、山本氏に教えられた「喜び」や「希望」が命を繋ぎ日本に帰ってこられたと感じているのではないだろうか。

さて、山本氏の遺書は「お母さま!」「妻よ!」「子供等へ」の三通で、どれも家族への感謝やこの先も生きていく者への励ましの言葉に満ちている。この中で「子供等へ」は、もちろん自分の子供達に語りかけているものだが、その内容は、収容所仲間の子供達や日本復興の柱となっていく子供世代の日本人全て、更には後世の私たちにまで向けている言葉のような気がしてならない。他の自由が奪われた分、研ぎ澄まされた頭で熟考した言葉は、なんと普遍性があって気高く説得力があるのだろう。無念にも日本の地を踏めずに亡くなった方々の思いが、この遺書に凝縮してるように思える。

戦後、戦争から学ぶと称して「平和教育」なるものが行われてきた。しかし理念が先走り、過去への反省ばかりが強調されてきた。そこには後世の者が安全な場所から勝手なことばかり言う批評家的な空虚さを感じる。本当に戦争から学ぶのなら、家族や祖国への思いを残して亡くなっていった人達の、最期の言葉にも耳を傾けるべきではないだろうか。

『なつのいけ』 村上康成・絵 塩野米松・文

なつのいけ なつのいけ
村上 康成、塩野 米松 他 (2002/06)
ひかりのくに
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本当のことをいうと、子供の頃はそれほど絵本が好きなわけではなかった。幼児の頃は眺めたりしていたが、自分で文字を読めるようになってからは、絵本は話が短すぎて物足りなく感じていた。絵本には絵本の楽しさがあると知ったのは、自分の子供と一緒に絵本を見るようになってからだ。

『なつのいけ』は、絵本でなければできない表現のたくさん詰まった作品だ。そう、「作品」という言い方がぴったりくる。
もくもくと入道雲の浮いている夏、小麦色に焼けて虫網を持って走る子供たち、池に辿り着くと一転、今度は見開きいっぱいに池の中の光景が広がる。そして池の中では水の生き物たちが、池の外では子供達が、それぞれ夏のひとときを過ごしている。そして時々、中の世界と外の世界が繋がって・・・。

見事な場面展開に舌を巻く。この完成度の高さは何かに似ている・・・そうだ!日本のTVコマーシャルだ。日本のコマーシャルフィルムは、とても洗練されている。30秒とか15秒の中にストーリーがあって、時には感動させてくれる。
コマーシャル代が上乗せされた商品を自分が購入して、回り回って下品な番組の制作費になったり気に入らないニュースキャスターのギャラを支払っていることへの不快感はこの際わきに置いておいて(←なら書くな!?)、「作品」としての完成度はとても高いと思う。

『なつのいけ』は、たった32ページの中に「夏」の大道具・小道具がぎっしり盛り込まれ、日に焼けた子供やアメンボ、アメリカザリガニなどの配役も唸らせる。ストーリーは紆余曲折あり、ちょっとした和む場面ありで、本当に見事な短編ドラマに仕上がっている。
そして読んだ人は「なつのいけ」に行ってみたくなる。コマーシャル効果抜群の本である。


※こんな俗っぽい思いつきでなく、美しい詩のような書評が読みたい方はいつも絵本といっしょさんの素敵な記事をごらんください。

『おじいちゃん戦争のことを教えて―孫娘からの質問状』 中條高徳

おじいちゃん戦争のことを教えて―孫娘からの質問状 おじいちゃん戦争のことを教えて―孫娘からの質問状
中条 高徳 (2002/08)
小学館
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大ベストセラーになったこの本を今更紹介するまでもないかとも思ったが、もしもまだ読んだことがない方がいらしたら、一人でも多くの方にこの名著を読んで欲しいと思って採り上げることにした。

著者の孫娘は父親の赴任先であるアメリカの高校に通っていた。そこで第二次世界大戦について学ぶ授業があり、当時の戦争体験者の話を聞こうという課題が出た。孫娘が祖父への質問を思い立ち先生に話したところ、先生は敵国だった日本の立場を学ぶことに興味を持たれて、孫娘が祖父に質問の手紙を出す。その質問の答えが本にすると250ページ近くに及ぶほどの内容になったのだ。

この本は、題名に「戦争」とつく本にありがちな「難しい、怖い、暗い」というイメージを完全に払拭してくれる。ここには、戦争の悲惨さを描き過去を反省したり嘆いたりするものとは正反対ともいえる、未来志向がある。それは祖父から孫への手紙という性質上、孫が生きていく将来の日本に対する著者の愛情が全体を覆っているからに違いない。
実際、本の内容は戦争のことだけでなく、戦後の日本が辿ってきた道、その間に失われてしまったもの、今後何を回復していかねばならないかということが多く語られている。

著者の中條さんが、失われたものや回復していかねばならないものを重視したのは、この本の中にも採り上げられている「ノンチックさんの詩」の影響もあるのかもしれない。ノンチックさんはマレーシア人。詩は次のような言葉で始まる。

かつて 日本人は
清らかで美しかった
かつて 日本人は
親切でこころ豊かだった
アジアの国の誰にでも
自分のことのように
一生懸命つくしてくれた


くすぐったくなるような賛美であるが、「戦後の日本人は・・・」と続く後半部分では、今の日本は自信を失い一体どうなってしまったのかと心配し、歯がゆいとまで言ってくれている。こんなに日本を思ってくれているアジアの人達もいるのに、我々日本人ときたら・・・という思いが著者にもあるのだろう。
これからの日本を担う子供を育てていく私たち、そして子供達自身も、このことを知る必要があると思う。アジアには、日本に謝って欲しいのではなく、自信を取り戻して欲しい国々があるのだ。『台湾人と日本精神(リップンチェンシン)―日本人よ胸を張りなさい』を読んだときにも同様のことを感じた。

年齢は小さいが、孫娘景子さんと同じく外国の学校に学んでいる我が子たちに、ことあるごとにかみ砕いて説明しているのが次のくだりである。

 景子、きみはいま、国際人としての素養を身につけるための絶好の環境で学んでいる。しかし、そこで学ぶべきものが単に英語に堪能になるとか、外国の友人をたくさんつくるといったレベルに止まってはならない。それでは単に英語屋であり、社交上手であるというにすぎず、真の国際人とはいえない。
 真の国際人とは、まず何よりも自国のアイデンティティを身にしみ込ませ、自国の公のために身を捧げるという心棒をしっかり備えていることが第一条件だ。外国の若者は日本の若者よりも押しなべて公に対する意識が強い。お互いがお互いの公に対する意識をしっかり持った上で交わる。そのとき、お互いの違いがはっきりと見え、その違いを認め合うことができる。その上に結ばれるのが真の友好というものなのだ。
 日本という国へのしっかりした意識をまず構築すること。それが景子の国際人の第一歩になるのだということを、くれぐれも忘れないでほしい。


この本を読み終えると不思議な感動が沸いてくる。
まず著者の日本を愛する気持ちが伝わってきて自分が日本人であることが嬉しくなる。
そして祖父から孫へと自分の体験や考え方を伝え、それによって祖父と孫の絆が深まることの大切さがわかる。最後に添えられた孫娘の書いた「おじいちゃんのレポートを読んで」には、祖父と孫娘の固い絆が感じられ、羨ましささえ覚えるほどである。ああ、私も祖父が生きている間にもっともっといろいろなことを聞いておけば良かった、亡父にはまだまだ我が子たちに教えてほしいことがたくさんあったと、残念でたまらない。

まだ、この本を読んだことのない人、特に中学生・高校生はぜひ一度手に取ってみて欲しい。もしも難しそうに感じたら「ノンチックさんの詩」や「おじいちゃんのレポートを読んで」を読んでみて欲しい。そして、少しずつでも良いから全編を読んで欲しい。若者たちが日本に誇りを持つことが、日本から失われたものを取り戻す第一歩となると私は確信している。

【追記】
本日8月15日は靖国神社に参拝された方もいらっしゃるでしょう。
中條高徳さんは、戦争に至る過程で日本は間違ったこともあったという考えの持ち主でいらっしゃいますが、毎朝(毎年ではありません。)靖国神社に参拝されています。また警察・消防関係の殉職者が祀られている弥生廟にもお詣りされているそうです。それは、そこに祀られている方々は「公」のために身を捧げたからだそうです。靖国神社に参拝するからといって、右翼だとか軍国主義だという批判は、全く的を射ていないものだと思います。


『しろくまちゃんのほっとけーき』 わかやま けん

しろくまちゃんのほっとけーき しろくまちゃんのほっとけーき
わかやま けん (1972/10)
こぐま社
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子供の頃、私の両親は流行のおもちゃを好まず、大抵の友達が持っていたリカちゃん人形も持っていなかった。それが、どういう風の吹き回しか、ある時の誕生日に「ママレンジ」をプレゼントしてくれた。「ママレンジ」は、小さな電熱器の上に、これまた小さなフライパンを置いて、実際に調理ができるという画期的なおもちゃで、当時の女の子のあこがれだった。
もともと持っているおもちゃが少ないこともあって、私は暇さえあればホットケーキを焼いた。

ぽたあん (フライパンに種をいれて)
どろどろ (たねが少しずつフライパン全体に広がるのよね)
ぴちぴちぴち (焼けて少しずつ固まってきた)
ぷつぷつ (表面に穴が開いてくる)
やけたかな (ひっくり返していいかなぁ)
まあだまだ (まだちょっとやわらかい。がまんがまん)
しゅっ (よ~し、ひっくり返すぞ~)
ぺたん (成功、成功)
ふくふく (ふっくら焼けてきた)
くんくん (おいしそうな香りが漂って)
ぽいっ (さあ取りだそう)
はい できあがり (きれいにできた!)

しろくまちゃんがホットケーキを作ると、「ママレンジ」に載せたフライパンの中の様子がありありと浮かんでくる。子供のために買った絵本なのに私の方が楽しんでいる?と思っていたけれど、我が子もこの本を大好きになって、二歳の頃に全部暗記してしまった。
子供の方は、卵を落として

あっわれちゃった

というところや、ホットケーキができて

こぐまちゃーん
ほっとけーき つくったわよ


と窓から友達のこぐまちゃんに呼びかけるところがお気に入り。しろくまちゃんになった気持ちで読んでいたのかな?

そんな我が子が、私の誕生日には一人でケーキを作ってくれるまでに成長した。「ママレンジ」は持っていないから「電子レンジ」を使ってだけど。


『プチ・ニコラ』 ジャン=ジャック サンペ・絵 ルネ ゴシニ ・文

プチ・ニコラ〈1〉集まれ、わんぱく! プチ・ニコラ〈1〉集まれ、わんぱく!
ジャン=ジャック サンペ、ルネ ゴシニ 他 (1996/02)
偕成社
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このシリーズを読みたくて読みたくて読みたくて、20年以上思い続けてやっと入手したときの気持ちと言ったら・・・あのとき地震や火事があったら、きっとこの五冊だけを持って逃げていただろう。

ニコラに初めて出会ったのは、4~5年生くらいの頃だった。祖父母の家にあった文春文庫版『わんぱくニコラ』をパラパラとめくっているうちに、ニコラと仲間たちの虜になってしまった。

ニコラはフランスの小学生。同級生には、いつも何か食べている食いしん坊のアルセスト、誰かの「鼻先に一発食わせ」たくてしかたがない力自慢のユード、ガリ勉アニャン、警察官の父を持つリュフュス・・・個性的な面々が勢揃い。彼らの起こす事件で学校生活はハチャメチャだ。

記念撮影をするだけだって大変な騒ぎ。大金持ちのジョフロワは火星人の服を着てくる。一番背が高く写りたいユードはみんなを威嚇し、とうとう火星人が頭に被っているドームを殴ってへこませ脱げなくしてしまう。そんな騒動でアルセストはジャムパンを落として服がベトベト。アニャンの眼鏡がはたき落とされ大声で泣き叫ぶ。「もう目がみえないよう。みんなぼくのことをきらっているんだ。死にたいよう。」
全員がきちんと並んでニコニコ笑ったときは、もう写真屋さんは帰ってしまっていた。

子供だけでなく大人までもがすぐにムキになる。ニコラに新しい自転車を買ってやったパパはこう言う。

「パパはものすごい自転車競技のチャンピオンだったんだよ。おまえのママと会いさえしなけりゃ、パパはたぶんプロの選手になってただろうね。」
 そんなこと、ぼくは知らなかった。ぼくはパパが、サッカーや、ラグビーや、水泳や、ボクシングのすごい選手だったことは知っていたけど、自転車のことははじめて聞いたんだ。


これだけでニコラのお父さんを大好きになってしまう。そこに隣家のブレデュールさんが登場して自分は自転車のすごい選手だったと言う。そして自慢合戦、けなし合いが始まり、とうとう大人二人が町内一周タイムレースをすることになる。ニコラの新しい未だ誰も乗っていない自転車で。挿絵には、小さな自転車の上に前屈みに卵のように丸く縮こまって、必死に自転車をこぐブレデュールさんが描かれている。パパの絵は・・・ハンカチで顔をぬぐいながら、ひしゃげた自転車を片手に歩いてくる姿だ。勢い余ってゴミ箱に突っ込んだのだ。
翌日学校で、ニコラからその話を聞いたクロテールの言うことがふるっている。

「どうにもならないよ、パパなんて、どこも似たようなもんさ。ふざけすぎるんだよ。ぼくらが気をつけてやらないと、あの人たちは、自転車をこわして、けがをしてしまうんだよ。」

この二人の大人はニコラたちの西部劇ごっこにも口を出し、最後にパパは木に縛り付けられて放置されてしまう。もちろん縛り付けたのはブレデュールさんだ。

そんな彼らが、私のフランス人男性観を形作り、近年カルロス・ゴーンさんやトルシエさんが経済界やスポーツ界で辣腕をふるうニュースを見ても「この人たちだって子供みたいなところがあるに違いない。」と何だか親しみがわいて仕方がないのだ。
そういえば、TV番組『料理の鉄人』で必死になってフランス人シェフを勝たせようとしていたフランス人審査員のお歴々には、ニコラのパパやブレデュールさんと同じ精神構造を感じ、彼らが真剣になればなるほど笑いがこみ上げてきた。

さて、この本が気に入り、二冊の文庫本は購入したが、待てど暮らせど全部で五巻あるはずの残りの三巻が出てこない。しびれを切らして、文藝春秋社の読者カードに催促の手紙を書いたが、何の効果もなかった。

成人してから友人と行ったパリ。私は一人で本屋をぶらついていた。そして何気なく本棚に目を向けると“NICOLAS”の文字だけが目に飛び込んできた。「もしかして・・・でも、まさか・・・。」そして手に取ると、そこには見慣れたニコラのイラストが描いてあった。あわててシリーズ全巻をその場で購入した。日本に帰ってから辞書を引き引き訳してみたが、英語さえままならない私にフランス語など言語道断。二章余りで挫折してしまった。

我が子が本に親しむようになったので児童書の目録を見ていると、今度は『ニコラ』の文字を発見。『プチ・ニコラ』シリーズが偕成社文庫から復刊し、残りの三巻も新たに翻訳されたのだった。我が子がこれを読むにはまだ早い。それでも即座に購入を決めた。20年も待ったのに買いそびれたくはなかったからだ。
読んでみて、相変わらずのハチャメチャさに大いに笑った。偕成社文庫のキャッチフレーズ「子どもとおとなのための偕成社文庫」にふさわしい、大人も楽しめる作品だ。

フランスに憧れ、フランスのセンスを身につけたい方には、有名ブランドのバッグなどよりも、この『プチ・ニコラ』ブランドの書籍をお薦めしたい。きっとエスプリという名のシャワーを浴びることができるから。

   

『おおきなきがほしい』 佐藤さとる・文 村上勉・絵 

おおきなきがほしい おおきなきがほしい
佐藤 さとる (1971/01)
偕成社
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“切っても切れない名コンビ”と言われたら、私はまず佐藤さとるさんと村上勉さんを思い浮かべる。佐藤さんの作品の挿絵が村上さんでなかったら、ものすごく居心地が悪くなり、むずむずしてきて、読んでいた本を放り投げたくなるだろう。それほどこのコンビは別ちがたい。

『おおきなきがほしい』は、佐藤さん独特の空想の世界が描かれている。男の子が家で窓の外を眺めながら
「庭に大きな自分の木があったらなぁ・・・。」
と考え始める。こういう展開の物語だと、私はたいてい
「な~んだ、空想の話か。嘘の話ならいくらでも好きなことが書けるから、荒唐無稽で白けちゃうのよね。」
などと斜に構えてしまう。しかし、佐藤さんの作品ではそうならない。それは、まるで目の前にその木があるような微細に渡る描写が続くからだ。

まず、いちばん したの えだまで はしごを かけなくては いけません。ぐらぐら すると あぶないので、はしごは えだに しっかり しばっておくのです。

空想の世界であっても、木に登るには跳び上がったり魔法を使って登るわけではなく、はしごは縛らなければぐらぐらしてしまう。この現実的な着眼が、物語をぐっと身近なものにしてくれる。これにつけられた村上さんの絵も、はしごがぐらぐらしないようにと、ロープで何重にもぐるぐるぐるぐる・・・これでもかというほど縛りつけてある。佐藤さんも村上さんも
「はしごが倒れたら大変だ。」
と本気で心配しているように思える。

木の上に造ってある小屋も、

「ここはね、えだが 三つに わかれていて、その えだに まるたんぼうを わたして、なわで しばりつけて、その まるたんぼうの うえに いたを ならべて、くぎで とめて、その いたの うえに ぼくの こやを つくってあるのさ。」 
 
という具合で、これなら安心して部屋に入れそうだ。部屋には、小さな妹が寝られるベッドやホットケーキを焼くコンロまである。落ち葉が舞い込んだり、雪が降る日はストーブを焚いたりして、木の上で四季を楽しむ。
「ああ、いいなぁ、私もこんな木が欲しいなぁ。」
いつのまにか、空想の世界に引きずり込まれていることに気づく。

佐藤さんと村上さんは、小さな男の子だった頃にやはり大きな自分の木が欲しかったに違いない。それでなければ、あんなに素敵な木と部屋を表現できるわけがない。

『私の幸福論』 福田恒存

私の幸福論 私の幸福論
福田 恒存 (1998/09)
筑摩書房
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子供達が、子供同士で使われる日本語を知るのに『ちびまるこちゃん』のアニメが役に立っている。ここには、とてもリアルな小学生生活が描かれている。さくらももこさんの人間観察眼は鋭くて、まるこに子供らしく遠慮のない「本音」を吐かせるのが上手なので、私も一緒になって楽しんでいる。
例えば、まるこが道に迷って誰かに尋ねようとした時に、向こうから中学生か高校生くらいのお姉さんが二人歩いてくる。一人はかわいい顔立ち、もう一人はかわいくない。まるこは「かわいいお姉さんの方に道案内して欲しいなぁ。」と思う。まるこに言わせているけれど、人間の本音はこうだよなぁと思う。差別だ何だと言われようが、心で感じることは誰にも止めさせることはできないのだ。

『私の幸福論』には、まず最初に「美醜について」と題して、そのことが書かれている。そこから展開される「自我」「宿命」「自由」「青春」「教養」「職業」「女らしさ」「母性」「性」「恋愛」「結婚」「家庭」「快楽と幸福」についての深い解釈。ひとつひとつの言葉に重みがあり、普段なら2時間もあれば読んでしまうほどの活字量を何日もかけて読んだ。

今の社会で問題になっている、少子化、拝金主義、人間関係の希薄化、家族の崩壊などは、この本の書かれた昭和三十年の段階で既に福田氏が、こうなってはならないと警鐘を鳴らしていたことばかりだ。現代と繋がるものとして印象に残ったことを自分の言葉で記しておこう。

・人間は「自由」でも「平等」でもない。現実には人は生まれながらに不平等であり、他人との差違を認識していくことで自我が確立する。
・夢を追って完全な自由を求めるなら、子供や結婚は邪魔な存在でしか無く、一人で生きていくのが一番良いと考えるようになってしまう。
・家庭からの解放を説く人は家庭から逃げているのであって、そのうち職場からも逃げたくなるような無責任な人生を送る可能性が高い。
・この世に「絶対」ということはない。社会でも、家庭でも絶対的な理想の状況を作り出そうとしても、何処かで破綻したり、達成した瞬間に次の欲求が生まれてくるものだ。

もうひとつ、女性として気になった箇所がある。
・女性が働き化粧品や洋服に費やすお金を自分で稼ぐことが「働く女性の美しさ」「女性らしさ」に繋がると言う風潮があるが、女性の本当の美しさとは「母性」ではないか。
というような内容の所である。
読んでいる最中には「まさにその通りだ。」と思ったが、よくよく考えてみると今は少し違ってきている。状況は悪くなっているのだ。なぜなら「男女共同参画」「ジェンダーフリー」などの名の下に、「女性らしさ」の否定が進んでいるからだ。「働く人間の美しさ」とは言っても良いが「働く女性の美しさ」と言ってはいけないというようなことになっているのが現状だ。

人間は生まれながらにして平等ではない。最初に揚げた「美醜」だけでなく、性別だって男女が全く同じものだというのはずいぶん無理のある解釈だ。理想ありきで、平等のためには「こうあらねば」ということを追い求めた結果、全ての人間がロボットのように画一的になり、自分の個性や環境に立脚した現実的な人生を送れないとしたら、そんなに不幸なことはない。「自由」「平等」の幻想から脱却すること、これが幸福への第一歩なのかもしれない。

福田恒存氏は現代仮名遣いに批判的で、ほとんどの著書が旧仮名遣いで書かれている。『私の幸福論』は、もともと若い女性を対象にした女性誌の連載をまとめたものなので、珍しく現代仮名遣いで書かれている。私のような者にも読みやすい形で、このような高邁な「生き方論」を残してくださり、本当に良かった。今の若い人達にもぜひ読んで欲しい本である。


しましまえんさんが簡潔で格調高い書評を書かれており、それがこの本を読むきっかけとなりました。しましまえんさん、どうもありがとうございました。

『パンやのくまさん』 フィービとセルビ ウォージントン さく・え/まさき るりこ やく

パンやのくまさん

パンやのくまさん / フィービ ウォージントン、セルビ ウォージントン 他

「この本が一番好き。」という我が子は「くまさんかわいいよねぇ。」と言う。この「かわいい。」という言葉は、日本ではよく使われるが、その意味するところがたくさんありすぎて、この一言では何も言えていないのと同じ場合が多い気がする。
我が子がくまさんに感じている「かわいい。」は、リボンを付けているとか、ニコニコ笑っているとか、目がぱっちりしているというような、表面的なかわいさではないと思う。なぜなら、くまさんはリボンどころか洋服も着ておらず、身につけているのはコックさんのような白い帽子だけ。ニコニコ笑っていることは一度たりともなく、いつも同じまじめな顔つき。目の大きさは黒ゴマかケシの実くらいで、ぱっちりとはほど遠い。
かわいいのは、くまさんの態度や行動、その奥にある内面的なものではないだろうか。見た目ではない何かを子供が感じ取り、言葉遣いが稚拙なため、「かわいい。」と表したのではないかと思う。

くまさんは“きまじめ”だ。 毎朝とても早くに起き、パン作りを始める。パンやケーキができれば店を開け、しばらくすると車でパンを売りにも行く。注文のケーキも届け、再び店番。店じまいをして晩ご飯の後にはお金を数え、その日の“締め”をしっかりしてから、目覚まし時計をかけて眠りにつく。完璧だ。これを読んだら、今すぐパン屋さんをやっていけそうな気になってくる。

お客さんにも礼儀正しく、時たま子供に飴をあげることはあっても、それ以上の馴れ馴れしさはない。お客さんとお店の人との適正な距離を保っている。いつも同じ表情なのは、パン屋としての分をわきまえているからに違いない。お客様に対するときは分け隔て無く丁寧に。そんな好ましい緊張感が顔つきに表れている。

子供はかわいいものが好きだろう。友達と仲良く遊んだり笑ったりするお話が好きだろう。というのは、大人の浅知恵なのかも知れない。子供は大人よりも感受性が豊かで、物事の本質を捉えていると感じることがある。“きまじめ”、“一生懸命”、“分をわきまえる”、こうした態度を清く美しいと感じる子供も、少なからずいるのではないだろうか。

吉村昭さんの死を悼む

今日は本の紹介記事は書けそうにない。
朝一番で吉村昭さんが亡くなったことを知ってしまったからだ。79歳というご高齢であり、密度の濃い作品を数多く残されたが、まだまだいろいろなことを教えてくださるような気がしていた。

児童文学や青春小説、エッセイばかり読んでいた私が、社会に目をむけるようになったのは、沢木耕太郎さんの『テロルの決算』を読んでからである。社会的な出来事を小説にして、おもしろく読ませてくれるジャンルがあるのだと知った。そして改めて父の本棚を覗いてみると、そうした類の本の宝庫だった。中でも吉村昭さんの作品の数が多く、テーマも多岐に渡っているので、知識のない私にも読める本が何冊かあった。

ライト兄弟より早くに飛行機を飛ばす実験をした二宮忠八の波瀾万丈な人生を描いた『虹の翼』、胃カメラを開発した日本人たちの粘り強い努力に焦点を当てた『光る壁画』。このような美談から始まり、脱獄を繰り返した囚人の『破獄』、黒部峡谷の過酷なトンネル工事の模様を描いた『高熱隧道』など、人間は限界ギリギリのところで何をするのかを見せてくれるようなものを読むようになった。

時々、吉村さんのエッセイも読んでみたりした。すると小説に感じていた密度の濃さの理由がわかった。「史実」にこだわり、とにかく取材重視。足で取材して現場を見る。そうでないと自信をもって書くことができないそうなのだ。小説家であるがジャーナリスト魂も持っていらっしゃる。ますます吉村さんの作品に傾倒し、今度は歴史物も読むようになった。

学校の授業ではあまりおもしろいと思えなかった歴史に関心が持てるようになったのは、吉村さんのおかげである。例えば、日露戦争については学校で何か習った覚えは殆ど無く、『海の史劇』『ポーツマスの旗』を読み、まるで映画を観るような臨場感と共に、その時の日本や世界を知ることができた。

またまだ読みたい作品がたくさんある。吉村さんが取材先で感じられた空気を、私も感じながら読んでいこう。

吉村昭さん、たくさんの贈り物をありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。 

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/books/breview/13206/

 

『やかまし村の子どもたち』 リンドグレーン

やかまし村の子どもたち やかまし村の子どもたち
リンドグレーン、大塚 勇三 他 (1965/01)
岩波書店
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やかまし村には家が並んで三軒建っていて、北屋敷に二人姉妹、南屋敷に男の子が一人、真ん中の家には男の子が二人と女の子が一人。子供は全部で六人しかいない。

いつも同じ顔ぶれ、小さな村、退屈そうに思える環境だが、子供達は次々と遊びを思いつく。
男の子同士の部屋は庭に生えている木を伝って行き来ができるし、女の子の方は部屋と部屋の間にひもを繋いでタバコの箱を行き来させて手紙のやりとりをしている。
裏庭に遊び小屋を作ったり、干し草の山にトンネルや洞窟を作ったり、おもしろそうだからと家出の計画をたててみたり・・・。

とにかく楽しそうなのだ。よくある男の子対女の子の意地の張り合いみたいなものはあるけれど、陰湿ないじめなどは一切無し。子供にとっては憧れの村だ。

こんなに明るく楽しく過ごしているのも、温かい家族があってのもの。
中屋敷の女の子は誕生日に、父と母が何ヶ月もかけて手作りした贈り物をもらう。世界中の女の子が羨ましがるような素敵な贈り物だ。
北屋敷のおじいちゃんは目が見えなくて、女の子達はいつも新聞を読んであげる。すると、おじいちゃんは記事に関連した思い出話をいっぱい教えてくれる。その話が聞きたくて、子供達はおじいちゃんの部屋に通うのだ。
子供達は収穫期に毎日カブラを抜いたり町まで買い物に行ったりと、大人の手伝いもたくさんしている。
大人も子供も、皆が助け合って節度を守って仲良く暮らしているのだ。

私が子供の頃、日本の児童文学は、説教じみていたり戦争を扱った暗い影のある作品が多かったような気がする。それに引き換えリンドグレーン描く子供達の世界は光り輝いていた。楽しいことばかりの本があったっていいじゃない?そう言っているようだった。

『やかまし村の子どもたち』は、特別なことが何もなくても生きることを楽しめるのだと教えてくれた。小さな村だって、便利な物がなくたって、学校まで遠くたって、不平不満を言わず、誰よりも楽しそうに生きている。生きることを楽しくするのは自分の心の持ちようなのだと、村を挙げて教えてくれていたのだ。

※『やかまし村の子どもたち』には映画(DVD)もあり、原作のイメージぴったりの子役達が演じているすばらしい作品だと思います。夏休みにお子さんと一緒に鑑賞するというのもお勧めです。
    

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