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『流れる星は生きている』 藤原 てい

流れる星は生きている (中公文庫BIBLIO20世紀)流れる星は生きている (中公文庫BIBLIO20世紀)
(2002/07)
藤原 てい

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この本で印象的なことを三つ挙げよと問われたら、「母は強し」「言葉の力」「かっぱおやじ」というのが私の答えだ。

観象台に勤務する夫(後に作家となる新田次郎)の赴任と共に満州に渡っていた藤原ていは、終戦直前の昭和二十年八月九日、突然追い立てられるように観象台官舎を出て逃げなければならなくなった。
なぜ?どこへ?も曖昧なまま、関東軍の家族達が移動していることから危険を察知して逃げることになった。実はその日は、ソ連が不可侵条約を破り突然参戦してきた日であったのだ。

ついに敗戦したことがわかり、男たちは保安隊に命じられ列車でどこかへ連れて行かれ、「観象台疎開団」はほぼ女子供たちだけで日本を目指さなければならなくなった。ていは六歳、三歳、生後一ヶ月の子供達を連れていた。
限られた持ち物を仲間の目からも隠し、飢えや病気と戦いながら、子供を抱えて川を渡り、子供を怒鳴りつけながら山道を歩く。子供達を守り抜いて日本まで戻らなければならないのだ。その為には、人格まで意図的に変えなければならなかったり、人を脅したり騙すことも必要になったり、時には家族内で誰を優先させるかという究極の生存競争に晒される。読みながら自分が歯を食いしばっている事に気づくことが何度もあった。中には、精神を病んで奇行を繰り返したかと思うと、ふとした拍子にぱっと正常に戻るという仲間もいた。

この想像を絶する過酷な状況で、ていが三人の子供を全て無事に連れ帰ったことは奇蹟としか思えない。
夫とは別に自分だけで子供を連れて逃げると決まったときに、

私は子供を護るために逃げるのだと、はっきりと決心がつくともう泣いていられなかった。

母親としての責任感と強い意志と母性が総動員され、この偉業は成し遂げられたに違いない。「母は強し。」
しかし、現代の私たち母親がここまでのことをできるだろうか。責任感も意志も母性も、この平和で便利な暮らしの中ではなかなか発揮する機会がなく、現代人の母の強さは退化しているかもしれない。

このていを支えていたのが、「言葉の力」だ。
日本の航空隊にいたという保安隊員が教えてくれた歌は、同じ部隊の戦死した二人の兵隊が作詞したものだった。てい達は、この三小節の悲しいメロデイの歌を覚え、繰り返し歌った。「流れる星は生きている」という表題にもなっている歌詞が、「夫は生きている」という希望に繋がり、絶望感からていを救った。

また、同じ疎開団のくに子さんの詠んだ短歌は、悲しくせつないものだったが、人々は何度も聞きたがった。涙を流しながら詠い、涙を流しながら聞いた。悲しいという感情も生きている実感に繋がるものだ。泣きながら、心は潤いを得たのではないだろうか。

言葉は精神に繋がり、精神は生に繋がる。今の日本では、言葉がどんどん簡略化され、記号のようになっていっている気がするが、言葉の力というものを再認識しなければならないと感じた。

「かっぱおやじ」は、ていによるその命名もすばらしいが、存在も一際印象的だ。
貧乏な「観象台疎開団」はお金持ちの「宮本団」にくっついて行くしかないと、ていは考える。その宮本団で、ていたちを貧乏団だと迷惑がり、徹底的に退けようとしたのが、かっぱおやじである。
かっぱおやじとていの喧嘩漫才のようなやりとりには思わず笑ってしまうが、何度となく騙され、ついにはていの長男が山中でかっぱおやじに置き去りにされ、ていは恨みの骨頂だったであろう。

紆余曲折を経て、日本上陸を果たした日、ていはかっぱおやじ率いる宮本団解散の場面に出くわす。ある意味、この本のクライマックスともいえ、感動を呼び起こす場面なので、ここに引用をすることは避けたいが、ていはここで宮本団の結束とかっぱおやじの統率力を大きく評価し、「私の完全な敗北」とまで書いている。自分の子供を死に追いやろうとした人を相手にである。かっぱおやじは

「自分の団のことをまず考えないで、人の団のことなんか考えられますか」

といい放ち、それを貫くために、ていの乞う手助けを斥け続けてきた。それが団のリーダーとしての使命だからである。生きるか死ぬかの時には、まず自分の下にいる者たちを守り抜くことを考え、他人を慮る余裕などない。

このかっぱおやじの逸話も、私は現代の日本と引き比べてしまう。
まもなく私たちの国のリーダーになるかもしれないという人の発言は、かっぱおやじの名言とリーダーシップの前では、「甘っちょろい」としか言いようがない。
「友愛」?
「日本列島は日本人だけの所有物ではない」?
「外国人に参政権を」?

今の日本国内だけ見ていれば他国を慮る余裕があるだろう。しかし、周りには自分たちの国の利益しか考えず、隙あらば領土を拡張しよう、溢れ出る失業者の行き先を確保しよう、と必死になっている国々があるのだ。
荒唐無稽な話ではない。
私がオーストラリアに住んでいたときに、在豪の中国人外交官の亡命によって、オーストラリアには千人以上の中国人スパイが送り込まれており、民間人として暮らしていることが明らかになった。その後、オーストラリアでは親中派のラッド氏が首相に選ばれた。移民地区に新たな選挙区ができたのも勝因の一つだと報道されていた。最近になってオーストラリアは、慌てて親中路線に修正を加えている。もう少しで自国の産業が中国に乗っ取られると気づいたからだ。中国の隣国であり、豊かな日本に、同様のスパイが送り込まれていない方がおかしい。また、中国資本による日本の山林の買い占めが始まっているとの報道もあった。
韓国は、竹島はもう手中に納めたと思っているのか、今度は対馬も韓国のものだと言う人も出てきた。
ロシアは北方領土返還問題について、もうこれ以上話し合いさえしたくないという。
親日的だといわれている台湾でさえ、尖閣諸島の領有権では一歩も譲らない。
このような国々を相手に「日本列島は日本人だけのものではない」などと言ってしまって良いのだろうか?
日本の領土を奪われた時、私たち母親はていのように子供達を連れてどこかへ逃げるような事態に耐えられるだろうか?
そんな修羅場になる前に、自分の国のリーダーには、かっぱおやじのように

「自分の国のことをまず考えないで、人の国の事なんか考えられますか」

と言ってほしい。日本に限らず、どこの国でも、国政に携わる人は本来そう考えるものではないだろうか。

夏になると「あの戦争を忘れてはならない」という言葉をよく聞くが、悲惨な被害のことだけでなく、その時に生き延びた人たちの生き延びることができた理由を考えることも大事ではないかと思う。
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『一葉』 鳥越 碧

一葉 一葉
鳥越 碧 (2005/02)
講談社
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樋口一葉が五千円札の肖像に選ばれた時、少し驚いた。あの「貧乏」の象徴のような作家と「紙幣」との不釣り合いがおかしかったからだ。

一葉といえば、貧乏の他にも、頭痛持ち、若くて勝ち気な戸主、庶民派などの印象がある。それで私は勝手に、父親や祖父は江戸の職人か何かだったのだろう、二人姉妹の長女なら戸主としての責任感も培われるだろう、などと思っていた。しかし、この本を読んで、その思いこみは全くの見当違いだったことを知った。歴史が一葉の人生を翻弄し、その苦境がなければ、庶民や社会の裏側を描き出す作品は生まれなかったことがわかった。

一葉の父親は、私の想像に反して士族であった。といっても、生まれは父母共に甲州の農家である。二人で江戸に出て、働きに働き節約に節約を重ねて、南町奉行所の同心株を購入した。やっとのことで念願の幕臣となった、その三ヶ月後に大政奉還。悪夢のような事態に、父母ともに激しく落胆した。そのような経緯が、樋口家の「士族」への執着を生み、それが一葉の人生を形作っていく。

士族としての誇りを守ることに使命感を覚えた一葉は、実は長子ではなかった。兄が二人、姉が一人、いるにはいたが、さまざまな事情から、父親は一葉に戸主を引き継ぐ。勝ち気で真っ直ぐな性格から、一葉は「戸主であること」「士族であること」を頑なに守るがために、幾多の困難にぶつかっていくことになる。「武士は食わねど高楊枝」を、明治になっても、しかも女だてらに守り続けようとしていたのだ。

この一葉が和歌の才能を発揮し始め、小説を学び、次々と作品を書いて売れっ子作家になっていく姿を、一葉の内面に入り込んで書き表したのが、鳥越碧さんである。
鳥越さんは、少女の頃から樋口一葉に憧れていたという。そう仰るだけあって、まるで自伝のように、樋口一葉の苦悩や喜びや迷いが書かれている。
あまりに真に迫っているから、読んでいる私にまで夏子(一葉の本名)が乗り移り、お金に困っては「嫌だ、嫌だ、嫌だ」、自分の性格を嘆いては「嫌だ、嫌だ、嫌だ」、にっちもさっちもいかない半井桃水への恋慕を思いつめ「嫌だ、嫌だ、嫌だ」と呟きながら、読んでいた。
この「嫌だ、嫌だ、嫌だ」が、一葉の作家としての才能に出会い、作品となって吐き出されていたのだろう。

森鴎外や幸田露伴からも認められ、筆一本で家族を養っていくことも夢ではなくなった矢先に、病が一葉を襲う。この間の悪さは、一葉の父母が士族に名を連ねた直後に武士という身分が無くなってしまった不運を思い起こさせ、ここまで運に見放されなくても・・・と同情の念が沸いてくる。

波瀾万丈な女流作家の一生が、単なる伝記の枠に収まらず一つの優れた小説となっている。一葉信奉者にはもちろんだが、一葉の作品には関心のない人にも、おもしろく読めるだろう。そして一葉が五千円札の肖像になっていることは、何かの冗談か皮肉のように感じるのではないだろうか。

『ケストナー―ナチスに抵抗し続けた作家』 クラウス コルドン

ケストナー―ナチスに抵抗し続けた作家 ケストナー―ナチスに抵抗し続けた作家
クラウス コルドン (1999/12)
偕成社
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ケストナーの児童小説には、母親と男の子の二人暮らしがよく出てくる。ケストナーも同じような境遇だったというようなことが、どこかに書かれていたので、ケストナーの生涯に関心をもち、この本を読んでみた。
読んでみると、ケストナーの政治的な態度や、当時のドイツの国情など、思いがけずいろいろなことを知ることができる奥の深い内容だった。

ケストナーの境遇については、母子家庭で女手一つで育てられたという印象を持っていたが、本当は父親も九一歳になるまで健在だった。但し実の父親かどうかはわからない。母親は結婚当初から、まじめな職人気質の父親を好きになれず、ケストナーを生き甲斐にして独り占めしたがっていたようだ。エーミールアントンのように、ケストナーが母親と緊密な関係だったことには変わりないが、仲間はずれにされていたようなこの父親のことを思うと、あまりにも気の毒だ。ケストナーが初めての児童向け作品に「エーミール」という父親の名を使い、立派で勇敢な少年に描いたのがせめてもの救いだ。

ケストナー自身も相当に勇敢であった。それまでの風刺的な作品によってナチスに睨まれ、作品を書くことを禁じられ、町の広場で自分の作品の焚書を見ることになろうとも、国内に留まり続けた。

《作家たるものは、自分の属する国の人々が、悪い時代に、いかにその運命に耐えるかを見ておかなければならない。》(『勇気と分別』より)

と考えていたのだ。ナチスの台頭を見ながらドイツ国民のナチスへの迎合に警告を繰り返し、戦後にはナチスとは無関係だったと急いで自己弁護する人たちを軽蔑している。
しかし、反ナチスの姿勢をとる一方でマルクス主義やプロレタリア運動とも距離を置いた。

《もっとも、ぼくはきみたちの味方だよ。なぜって、同じ敵を相手にしてるからね。でも、きみたちが天下をとっても、人間の理想は、ぜったいに実現しないだろうよ。貧しいからといって、賢いとか善良だとかいうことにはなりはしないんだから》(『ファービアン』より)

この本には、ヒットラーの独裁政権がどのようなことをしたかが書かれているが、私はそれを読みながら、しばしばドイツと日本の戦後処理について比較されたりするのを思い出した。欧米の人たちはドイツと同盟国であった日本も同じような政治体制だったのだろうと思いこんでいるのではないだろうか。
私は日本人であるから、いかに同盟国といっても、あのような独裁政権とは違っていたことを知っているが、日本のことをよく知らない国の人たちは同一視してしまうのだろう。
逆に日本は、同盟国であったドイツのことを、よく知っていたわけではない気がしたが、本当のところどうだったのだろう。
少なくとも私自身は、ここに書かれている戦争前後のドイツ国内の状況について、ずいぶん勉強になった。子供が読むことも想定して書かれているので、同じページ内に解説が書かれていて、とてもわかりやすい。

戦後の敗戦国としての屈辱や悲哀は、日本と共通するものを感じる。一九四八年に発表された『雑貨屋のメルヘン』は、我が国の事と重なり胸を打たれる。

《あるところに、マッチのない国がありました。安全ピンもない。待ち針もない。縫い針もない。つくろうための糸もない。絹糸も、より糸もない。粉石鹸もない。どこを捜しても、ゴムひものきれっぱしすらない。ろうそくもない。電球もない。鍋もない。ガラスも、パテもない・・・。その国の人々は、とても悲しくなりました。というのも、第一に、生活をすてきにかざってくれるようなこまごまとした物がこんなふうに、なにひとつなかったからです。第二に、それらがなくなってしまったのが、自分たちのせいだと知っていたからです。そして第三に、よその国から人々がやってきては、あなたがたのせいですよと告げたからです。そのことを決して忘れてはなりません、と。みんなは、できることなら思い切り大声で泣きたかったのです。でも、ハンカチもありませんでした。そこで、彼らは勇気を出してこういいました。「泣いてなんかいないで、働こうじゃないか。働くには、ハンカチなんていらないんだ」こうして、彼らは働き出したのです》

「よその国から人々がやってきては、あなたがたのせいですよと告げたからです。そのことを決して忘れてはなりません、と。」同じように言われた日本の人々も「思い切り大声で泣きたかった」に違いない。そしてドイツと同じように懸命に働き出したのだ。

同じ年に、ケストナーは、「あなたがたのせい」だからと、戦勝国によってドイツが分割統治されることを憂えた詩『大国への手紙』も書いている。

ちゃんと落ち着いて話しましょうか。
あなた方が、どんな理屈をこねても、
あなた方が、どんなに正義をかかげても、
まちがいは、まちがいなのです。
昔の犯罪を理由にして、そのおろかしさを説明されても、
いいわけにはなりません。


ケストナーは、政治的左派だと見られているが、イデオロギーありきではない、現実を踏まえた平和主義者だったのだろう。ケストナーの主張に説得力があるのは、一本筋の通った「祖国愛」と「独立心」が感じられるからではないかと思う。
これまで、ケストナーの作品は児童書しか読んでこなかったが、大人向けの作品にも興味が沸いてきた。

『白洲次郎 占領を背負った男』 北 康利

白洲次郎 占領を背負った男 白洲次郎 占領を背負った男
北 康利 (2005/07/22)
講談社
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憲法記念日を「国民の“祝日”」とは言いたくない気持ちがある。その成立の過程を知ってしまったら、とても祝う気にはなれない。

日本国憲法の草案は二十五人のGHQ民政局のアメリカ人の手によってたった九日で書き上げられた。その中に憲法の専門家は一人もいない。メンバーの一人が後に、

「興奮しましたが、私には憲法を作る能力も知識もなかったので不安でした。」

と述べているくらいだ。ほぼ草案通りに日本語に書き直され日本政府が公表するまで約一ヶ月。一国の憲法を制定するのに非常識とも思われる短期間で作業を終えたのは、ソ連が介入してくる前に決着をつけたいというGHQ民政局の意向が強く働いている。
占領軍の意向で憲法が制定されることは、国際法であるハーグ条約違反である。極東委員会の米国代表マッコイ議長さえマッカーサーのやり方を支持していなかった。またGHQ内でも参謀第二部のウィロビー少将は、民政局は日本を共産主義国家に改造しようとしているのではないかと危惧していた。

そのようなアメリカの中でも独走していた民政局が作成した憲法草案は、国務大臣松本烝治には耐えられないものだったに違いない。松本は、GHQに押しつけられる前に自分たち日本人で憲法を作ろうと独自の草案を作成していたのだ。天皇の国事行為に関して民政局が“advice&consent”(輔弼と同意)という言葉を入れさせようとした時に松本の怒りは爆発した。

「そもそも“同意”などという言葉では天皇への敬意が伝わらん。英語には相手を表す言葉は“you”ひとつしかないかもしれんが、日本には“you”に相当する言葉はたくさんあるんだ」
「それでは日本語は相手によって表現が変わるというのか?」
「もちろんだ」
「そのような言語は民主主義に反する。改めるべきだ」
松本は再び切れた。
「君たちは日本語をかえるつもりで日本に来たのか!輔弼という言葉は日本には昔からあるんだっ!」


この件で怒った松本は帰ってしまい、残った白州次郎たちが確定草案の日本語訳を二日間の徹夜作業で行うことになった。残った側の労苦もわかるが、松本のこの心情も理解できる。次郎が、他の場面ではGHQに臆せず言いたいことを言っているのに、憲法制定に関してはなぜか物わかりが良すぎる気がして、松本の台詞の方が印象に残る。
次郎は、イギリスに留学していた影響か、この世代の政治家やその周辺の人々はそういう傾向なのか、リベラルな考えも持っており、それほど天皇制にはこだわっていなかった。その差が新憲法への態度の違いに出ているようだ。

とは言っても、次郎も、喜んでこの作業を行ったわけではない。天皇崇拝の強い政治家はGHQによって潰されかねない状況下で、自ら汚れ役を引き受け、妥協点を探る役割を担ったのだ。それに、占領下の暫定憲法でいずれは自主憲法を持つと考えていたから、妥協もしやすかったのかも知れない。憲法草案が公表された翌日、次郎は公文書の中に

「今に見ていろ」ト云フ気持抑へキレス。ヒソカニ涙ス。

と書いている。涙したのは次郎だけではなかった。議会で可決されたときの模様は次のようだった。

GHQに強要された憲法であることはすでにどの議員たちも知っている。多くの議員が無念のあまり嗚咽を漏らした。無数の啜り泣きが議場を粛然とさせたのはこのときが最初で最後ではあるまいか。

民政局は、この後さらに増長して、日本政府を私物化し始めた。組閣にまで口を出し始めたのだ。そのような占領下で、次郎は吉田茂の懐刀として、民政局の弱体化を図ると同時に、通産省の設立や不足していた電力の供給体制の整備などに尽力する。
そして、ようやく生産力が備わってくると、国内から講和を求める声が揚がってくる。この時期、次郎はアメリカへの密かな打診を行っているが、その際将来沖縄や小笠原を返還さしめる重要な発言を行っている。
講和条約受諾の際には、外務省に対して激怒した。受諾演説の草稿を見たら、英語で占領に感謝する言葉が並んでいたからだ。聞けば、事前にGHQ側にチェックしてもらっているという。

「何だと!講和会議でおれたちはようやく戦勝国と同等の立場になれるんだろう。その晴れの日の演説原稿を、相手方と相談した上に相手国の言葉で書くバカがどこの世界にいるんだ!」

そうして、原稿は日本語になり、和紙に毛筆で書かれることになる。ここでも領土の返還について言及させた。
同じ時、日米安全保障条約の署名も行われた。日本側は吉田茂首相の他五名が同行したが、吉田は

「安保条約は不人気だ。将来ある政治家が署名するのはためにならん。わしひとりで署名しよう。」

吉田のこのような潔さが好きで、次郎は徹底して吉田をサポートしていたのだろう。
日本が独立国となってからは、次郎が政治の場面に出て行く機会は減った。しかし吉田茂と白州次郎、

彼らは文字通り“一心同体”“二人三脚”で、日本の復興に力の限り尽くしたのだ。

そうそう、今日は憲法記念日である。白州次郎が日本国憲法について、どのように言っているかを記しておこう。

この憲法は占領軍によって強制されたものであると明示すべきであった。歴史上の事実を都合良くごまかしたところで何になる。後年そのごまかしが事実と信じられるような時がくれば、それはほんとに一大事であると同時に重大な罪悪であると考える。


※追記(平成19年5月3日9:40)

本日の産経新聞『正論』欄に上坂冬子さんが憲法について書かれており、次のような一文がありました。

 現行憲法のどんなところが納得いかないかと聞かれて私がいつも具体例として取りあげるのは、第24条の「婚姻は両性の合意のみにて成立」というところだ。それまで日本では男は30歳、女は25歳まで、結婚には親の許可が必要であった。
 これがあるべき姿だとはいわない。しかし伝統的親子関係をアッというまにかなぐりすてて、似ても似つかぬ条文をかかげたところに無理がありすぎた。最悪の食糧事情の下でやせ細った体に、サイズのまったく合わない衣装を着せられたヒズミが、60年を経て親殺し子殺しとなって結実したとさえ私は思っている。


この条文の原案は、憲法制定時に通訳として参加していた23歳の女性ベアテ・シロタが作ったものだと、この本には書いてあります。通訳という職業や女性を蔑視するわけではありませんが、法律の専門家でもない23歳の通訳が、女性であるというだけで、女性の権利に関わる条文の作成を任されていたというところに、この憲法の安易さがあらわれていると思います。
シロタ女史を含めた、メンバーたちのやり方を白州次郎は、こう書き記しています。

無経験で若気の至りとでも言う様な、幼稚な理想論を丸呑みして実行に移していった。憲法にしろ色々の法規は、米国でさえ成立不可能なものをどしどし成立させ益々得意を増していった。ちょっと夢遊病者のようにもので正気がどうかも見当がつかなかったし、善意か悪意かの判断なんてもっての外で、ただはじめて化学の実験をした子供が、試験管に色々の薬品を入れて面白がっていたと思えばまあ大した間違いはないだろう。


※面白いことに、この『白洲次郎 占領を背負った男』の帯には「城山三郎氏、本書を推す!」とあります。城山氏は広田弘毅を主人公とした『落日燃ゆ』の中で、吉田茂を広田のライバルとして、「悪人」と言ってもよいくらいの人物に描いています。一方この『白洲次郎 占領を背負った男』では、吉田茂は政治家としても人間としても高い評価を得ています。広田のA級戦犯としての判決や処刑に際して吉田茂がどう反応したかも対照的に書かれています。

『天皇の料理番』 杉森 久英

天皇の料理番 天皇の料理番
杉森 久英 (1982/01)
集英社
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日本は、本当に何を食べても美味しい国だ。オーストラリアにいると、洋風な料理でさえも日本で食べた方がおいしかったと思うことがよくある。そんな日本の西洋料理の元を辿ると、この本の主人公「徳蔵」に行き当たる。

徳蔵は福井の旧家の次男坊。十歳の時に自ら志願して禅寺に弟子入りするが、歴代住職の墓石を次々と押し倒して、1年あまりで破門になる。夫婦養子となった家を、「料理人になりたい。」と黙って飛び出したのが17歳の時。こんな腕白な人物だったからこそ、明治時代、文明開化の激しい波に乗って、「西洋料理」という新しいジャンルでの第一人者にまで、のし上がって行けたのだ。

しかし当然、腕白なだけではダメである。「料理人になりたい。」という自分の志のためなら、人を立てることもできるし、1年だけとはいえ仏門で学んだ時に得た「辛抱」を貫くことも出来る。ごくたまに、辛抱しきれなくて、相手を「ポカリ!」ということもあるけれど。勤勉で、誰よりも働き、誰よりも勉強をした。華族会館で、学生街の小さな食堂で、フランスの名門レストランで・・・修行に修行を重ね、貪欲に、時には強引に技術を学んだ。

この小説の面白いところは、単なる料理人のサクセスストーリーではなく、いろいろな楽しみが発見できることだ。

一つには、日本における西洋料理の歴史を知ることが出来る。当時の上流社会が西洋料理のレベルアップや普及を牽引していたことがとてもよくわかる。
また、その当時の東京の様子や世相を知ることができる。丸の内はまだ野原で屋台置き場になっていたことや、吉原の情景など、知らないことがたくさん書かれていた。
人と人との不思議な縁がいくつも見られる。福井で生まれて初めての「トンカツ」を食べさせてくれた軍曹。兄や最初の職場での同僚新太郎と女性たちとの奇縁。
宮中の舞台裏の様子も少しわかる。その中でも、徳蔵は腕白ぶりを発揮していたらしい。

また教育制度についても、考えさせられるところがあった。徳蔵は、高等小学校しか出ていないが、自力で先生を見つけ出してフランス語を習い、フランスへの料理修行の夢を果たし、日本に帰国した後は西洋料理界の最高峰に立つ。しかも「料理バカ」ではなく、社会に対する関心も、知識も、洞察力もある。

一番驚いたのは、学生街の食堂で働いていたときの逸話だ。
折しも日露講和条約が結ばれ、食堂に来た学生の間で「屈辱的な条件をのんだ。」と不満の声が上がったとき、徳蔵は反論した。勝ったと言っても日本は物資を使い果たし余力がない。国民にそれを知らせれば交渉相手のロシアにも知られることになり、政府は苦しい立場だろうと言ったのだ。
今となれば日本政府が精一杯の交渉をしたことがわかっているが、当時は、その学生のような意見が大半で、政府に不満を訴える集会や暴動も後を絶たなかった。そんな中で、小学校しか出ていない二十歳前の徳蔵が、多数意見に惑わされず正鵠を得た意見を述べ、しかも大学生を論破してしまったのだ。

徳蔵の頃からから比べれば、日本全体の学歴(学力ではなく)は相当に上がった。しかし人間としての成熟度はどうだろう。昔は、小学校しか出ていなくても、就職した会社や業界でリーダーになる人も多かったし、そういう人達は社会にも関心が深く知識もあったのではないか。今のように、ただ履歴書に書くだけのために猫も杓子も上の学校に行こうとすることが、とても滑稽なことに思える。
義務教育で社会に出るための基礎学力をしっかり身につければ、いつ社会に出るかは、個人の勉学に対する意欲や、つきたい職業で違っていても良いのではないだろうか。
現代的な考えでないかもしれないが、昔の人にできたことが今の人にできないわけはない。そんなことを考えさせられる、徳蔵の一生であった。


※この本を読み終わった頃に、芸術的イエローカードさんのコメント欄に管理人のフニャさんが学校制度について、「いっそのこと旧制に戻して、早くから職業教育を充実させた方が、学力も落とさず、個性も生かせる気がします。」と書かれていたのを見て共感を覚えました。それがこの記事の後半に繋がりました。フニャさんありがとうございました。

Appendix

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