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『悪者見参―ユーゴスラビアサッカー戦記』 木村 元彦

悪者見参―ユーゴスラビアサッカー戦記 (集英社文庫)悪者見参―ユーゴスラビアサッカー戦記 (集英社文庫)
(2001/06)
木村 元彦

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コソボが独立宣言をした。そのニュースを見て慌ててこの本を読んだ。読まないまま積んでおいたのは、私はサッカーにもコソボを巡る紛争にも疎く、全くわからないことだらけの本を開くことに躊躇していたからだ。しかし一度読み始めると、著者の命がけの取材によって民族紛争の実態が次々と明らかにされていき、今度は本を閉じることができなくなる。

取材の対象は、実に「狭く」て「広い」。というのは、著者の元々の関心はユーゴスラビアのサッカー選手やチームにあるため、取材対象は、サッカー選手、サッカーチームのオーナー、サッカー協会のお偉いさん、有名フーリガンやサポーターなど、サッカーに関わる人々という限定的なものになる。こちらが「狭い」方。
次に「広い」方。そのサッカー関係者の民族、出身地をみていくと、セルビア、アルバニア、モンテネグロ、コソボ、クロアチア、スロベニア、マケドニアと、旧ユーゴスラビア全域に散らばる。著者はそのほとんど全てに赴いている。また、それらのサッカー関係者を取材すれば、必ずそこには政治的な問題が絡んでくる。選手達が政治とスポーツは別だと言い政治的発言を避けていても、もっと大きな力が選手の居場所を失わせ、それに憤ったサッカー関係者が、新しいリーグやチームを作っていく。この地域のサッカー組織の複雑さは、政治の複雑さを映す鏡なのだ。

今回のコソボの独立宣言は、いわゆる旧西側陣営からは、概ね好意的に受け止められている。しかし、この本を読むと、その裏にある、世界中から一方的に悪者扱いされているセルビア人達の悲しみのことにも思いが及ぶようになる。

コソボは、セルビア人にとって京都や奈良のような場所だとか、富士山のような場所だという。そのような場所に、過去の戦争や周辺国との紛争でアルバニア人が大量に流入し、コソボの人口の大多数を占めるに到り、セルビア人を排除しながら独立へ向かおうとしている。

セルビア人が他民族に虐殺されたり被害を受けたことは問題にならず、セルビアの加害者的側面ばかりが報道される。

クロアチアを始め、他民族はどんどん独立していく中、セルビア人だけがユーゴスラビアという古い入れ物の中で残務処理をしなければならない理不尽さ。なぜクロアチアはクロアチア国歌が歌えるのに、セルビア人は未だにセルビア国歌がなく、民族融和の幻想を引きずるユーゴスラビア国歌を歌わなければならないのか!

サッカーに詳しければ五倍も十倍も興味深く読めたと思うが、選手のことをほとんど知らない私でも、心打たれたのは「矜持」と題された第三章だ。それを象徴するのが、表紙の写真で、『NATO STOP STRIKES』と書かれたシャツを着ているストイコビッチ。コソボ空爆を受けて、それまで政治的発言は慎んできたユーゴスラビアの選手達が、一致団結して反NATOの意思表示を示し始めるのはこの瞬間からだ。世界中に悪者だと喧伝されてきた悔しさが一気にこみ上げてきたことが伝わってくる。家族を空爆のさなかに残して海外でプレーをしなければならない選手達に、これ以上黙っていることはできなかったのであろう。

この本の中には、セルビアだけでなく、この地域の様々な民族の「矜持」を見ることができる。どんなに人口が少なくても、どんなに貧しくても、どんなに悪者扱いされても、自分の民族が好き、自分の出身地が好き、サッカーが好き、それを守るために自分にできることを精一杯やっている。本に出てくる民族が替わる度に、「こんなに真摯に生きている、この民族は悪くない。」と感じてしまう。それでは、いったい誰が悪いのか?著者は言う。
「絶対的な悪者は生まれない。絶対的な悪者は作られるのだ。」

コソボの独立を支持すべきかどうか、難しすぎて私にはコメントできない。しかし、セルビアだけが絶対的な悪者だというニュースが流れてきても、鵜呑みにはするまい。そして、部外者である他民族が口を挟むべきことだったのかどうかという疑問を持ち続けていようと思う。

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中国製餃子事件を考える(其の二)-『民間防衛 新装版―あらゆる危険から身をまもる』

民間防衛 新装版―あらゆる危険から身をまもる民間防衛 新装版―あらゆる危険から身をまもる
(2003/07)
不明

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中国製の餃子に健康を害するものが入っていた。この事件で誰もが思うのは、日本人の生命や健康を守らなくてはならないということだ。しかし、その後の対処法については議論が分かれる。おおまかに言って、一方の主張は、
「日本の食料自給率は低く、中国産・中国製がなければ需要を満たすことができない。検査体制を厳しくして、安全なものしか入ってこないようにしよう。」
で、もう一方は、
「中国から食品を買うのを減らし、食料自給率を上げていこう。」
である。
日本の食料自給率は40%程度(カロリーベース)だと言われている。国内の生産で全てを賄うのは、すぐにできる話ではない。しかし方向性として、私は後者を目指すべきではないかと思っている。私の頭の片隅にはいつも、次に記した『民間防衛』の中の一節があるからだ。

全体戦争の今の時代に於いては、経済は、政治と戦争の基本的武器である。スイスが経済活動の面で外国に依存する状態にあることは、この点からいって重大な危険である。われわれの攻撃者となるかもしれない国に、われわれが必要とする物の供給を独占させることは、どうしても避けなくてはならない。

文章の中に「スイス」とあるのは、これはスイス政府が編集したものだからである。永世中立国スイス政府は、自国の独立と平和を守れるように、この『民間防衛』を全国民に配布していた。そこには、武力を伴う攻撃だけでなく、他国からのあらゆる攻撃に備える国民の心構えが書かれている。その「あらゆる攻撃」のうちの一つが、経済によるものである。

日本の食料自給率は、他の先進国に比べて際立って低い。経済大国だとしても、輸入先の国が供給をストップして兵糧攻めを仕掛けてきたり、一斉に毒物を入れられたら、ひとたまりもない。
今回の餃子事件でも、「お弁当に入れるものがない。」「スーパーの棚ががら空きになった。」「外食店で提供できないメニューがいくつもできてしまった。」と、困っている人たちがたくさんいるようだ。餃子一つでこれである。しかも供給元は、普段から反日教育や反日プロパガンダ盛んな中国である。

われわれの攻撃者となるかもしれない国に、われわれが必要とする物の供給を独占させることは、どうしても避けなくてはならない。

という危機意識を持つべきではないのだろうか。
日本の食品輸入量を国別に見てみると、中国からの輸入量は第二位(一位はアメリカ)であるが、加工食品については第一位の品目も多い。そして厚生労働省による検査に違反した件数は、中国が圧倒的に多く、世界第一位である。(平成17年度・厚生労働省)
自給率が低いから中国に頼らざるを得ない、というのは本末転倒な話で、中国に頼らない方法を考えなければならない。

一番ハードルが低いのは、中国以外の外国からの輸入にシフトしていくという方策であろう。一国からの供給に偏っていなければ、リスクは軽減できる。

それから、原料は輸入するが加工は国内で行うようにすることも有効だ。
この方法のメリットは、まず、製造工程の管理が可能で、製造中に毒物を入れるなどという攻撃を防ぐことができる。また、原料の仕入れ先を選ぶことができるので、原料の安全も保つことができる。
原料ベースでの自給率に変化はないが、外国への依存度を少しでも減らすことになる。自給率が低いからと言って、加工の工程まで外国に任せておく必要はない。
具体的には、海外の比重が高くなってしまった生産拠点(工場)を国内へ戻すことと、国民が加工食品の利用を減らし、食材を購入して自分で調理する習慣を取り戻すこと。経済防衛のためには、割高な加工費を負担したり、調理に手間をかけることも、避けていてはならない。

難しいかもしれないが目指して欲しいのは、原料の国内生産を増やすこと。技術の向上や、国民が安全に対しての費用負担を覚悟するようになれば、不可能ではないかもしれない。

最後に、食品を無駄にしないこと。
自給率のベースとなる国民一人に供給される食糧のカロリーは一日2,548Kcal(平成18年度・農林水産省)と算出されているが、これは日本人のエネルギー摂取量が男性平均2,119Kcal・女性平均1,904Kcal(平成17年度・厚生労働省)であるという実態とは、かけ離れた数字である。供給されているけれど、摂取されていない、つまり廃棄されているものが多いということである。
消費者個々の努力も大切だが、コンビニ・スーパーなど流通業や食品メーカーでの大量廃棄をどう減らしていくかを考えるべきではないだろうか。

『民間防衛』には、次のような一文もある。

つまり、危険が目前に迫ったことによって、これまでどっちつかずの態度でいた者は、はっきりとした態度をとらざるを得ないことになり、また、スイス国民の精神的連帯感は刻一刻と強まっていくのである。

餃子事件によって、日本の食糧問題が「危険」の領域にさしかかっていると気づいた国民は多いのではないだろうか。連帯感をもって、日本の食を守ることを考えなければならない時が来たのかもしれない。




『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』 米原 万里

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 嘘つきアーニャの真っ赤な真実
米原 万里 (2001/07)
角川書店
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この本に出てくる三人の女の子は、出身国も民族も性格もまるっきり違う。ギリシャ出身のおませなリッツァ、ルーマニア出身の愛国主義者アーニャ、そしてユーゴスラビア出身の優等生ヤスミンカ。彼女たちはチェコスロバキアのプラハにある「ソビエト学校」の同級生だった。

そして彼女たちのことを語るのは、やはり同級生の一人だった日本人マリ、米原万里さんである。米原さんはロシア語通訳者。国際会議やロシア要人の通訳をされる一方で、ユーモアと知性溢れるエッセイを書かれていた。エッセイのどこかに子供の頃の外国暮らしでロシア語を覚えたと書かれていたが、各国の共産主義者の子弟が通う「ソビエト学校」に通われていたとは知らなかった。彼女の父親は、国際共産主義運動の理論誌の編集をするため、一九六〇年から一九六四年までプラハに在住していたのだ。

この本は三章に分かれ、第一章はリッツァ、第二章はアーニャ、第三章はヤスミンカについて書かれている。

子供の頃のエピソードは、海外の児童文学を読んでいるようだ。学校ではどんな勉強をしていたのか、子供同士ではどんな会話をしていたのか、学校の近くにある駄菓子屋、共産主義国の文房具事情・・・子供達の暮らしがわかる。そして、子供達の会話が、大人びていることに驚く。

ませているリッツァはマリに男女のことをいろいろと教えてくれる。その一方で啓蒙映画を観た後で「マリ、レーニンって、ずいぶんいい暮らしをしていたのね。」などと冷静な感想を述べて、マリに尊敬の念を覚えさせたりする。

バスの運転手さんにまで「同志」と呼びかけ、赤ちゃんのとき毛沢東にだっこされたのが自慢のアーニャは、共産主義の理想を追っているようでいて、豪邸に住んで使用人に何でもしてもらっていた。それに矛盾を感じていないアーニャに、マリは何となく距離を置くようになる。

ヤースナとマリは政治的な問題から、お互いに親近感を覚える。片やソビエトから資本主義寄りだとして非難されるユーゴスラビア出身、もう一人は中国寄りだといって警戒されている日本出身のマリ。学校で居心地の悪い思いをしている二人は、お互いを理解し合えた。

これらの子供時代だけでも、冷戦時代の東側という未知の世界を覗くことができて大変興味深いものなのだが、大人になってからマリがそれぞれの友人を探しだし訪ねていくところに、もっともっと驚くべきことが書かれていた。

ソビエトがチェコに侵入した「プラハの春」や、ソビエトや中・東欧諸国の崩壊、ユーゴスラビアの紛争、これら世界情勢の変化が、この三人の友人やその家族たちの人生を大きく変えていた。子供の頃には知らなかった友人の父親たちの祖国での立場。プラハの「ソビエト学校」は各国の共産主義エリートたちが集まる学校だったから、エリートの子弟である彼女たちの人生は政治に翻弄される。それを考えると、彼女たちが今生きているかどうかさえ確かではない。まるで、冷戦時代のスパイ小説のような展開になってくる。

米原さんが、友人たちを懐かしむだけでなく、冷静な目で共産主義や友人とその家族たちの思想や生き方を見つめる。ある要人に、子供の頃からの知り合いでなければできないような質問を繰り出す場面は圧倒される。米原さんは、この件に関しては、どんなジャーナリストにも真似のできない環境に育ち、実感の伴った知識も持っているのではないだろうか。

誰にでもおもしろく読める本だと思うが、特に中・東欧社会や東西冷戦に関心があるけれど、あまり詳しくないという方には、是非お薦めしたい。
私は学生時代に『スターリン以後の東欧』などの本を読んでみたが、国名やそれぞれの指導者や事件が頭の中でゴチャゴチャになってしまった。その頃この本があったら、「アーニャの祖国ルーマニア」「ソビエト学校のあったプラハ」などと、少しは身近な問題として捉えられたし、頭の中の整理にも役立ったであろう。
ユーゴに関する本を何冊か読んでいる主人がいろいろと説明してくれても、民族や宗教や地域が複雑すぎてよくわからない。これも今後はヤスミンカの逸話が、少し理解の手助けをしてくれるだろう。

米原さんは昨年、五十代の若さで病気のため亡くなられている。友人たちに比べると遙かに平和な日本で暮らしながら、必ずしも長寿を全うするとは限らないというところに、運命の不思議さを感じた。

『アラブのこころ』 曾野 綾子

アラブのこころ アラブのこころ
曾野 綾子 (1979/01)
集英社
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先日読んだ清水義範さんの本の中に「イランはアラブではない。」という箇所があり、そうかイスラム=アラブではないのだ、とハッと気づいた。また「ウナムのまなざし」さんのサイトでも
>僕が出会ったあるトルコ人はトルコをアラブの一部と思われるのをすごく嫌がっていた。
と書かれていた。やはりイスラム=アラブではないのだ。

ではアラブっていったい何だろう?

曾野綾子さんは、「知ったかぶり」の反対「知らないかぶり」が上手な方なのではないかと思う。日本人の意識はアラブとアブラ(油)が結びついた程度だと認識し、そのレベルまで「知らないかぶり」をして、取材をしてくれている。アラブ諸国にいる日本人や現地の人たちへ素朴な質問をぶつけ、私のようなアラブ初心者にもわかることばかりが書かれている。

最初の質問からして率直である。

「ところで、アラブ人、というのは、いったい誰のことなんですか?」

それに対する答えはこうだ。

「アラビア語を喋り、アラブ文化圏に育ち、アラブのいずれかの国で生活し、ムハンマドの教えを信じ、アラブの民族のどれかに属すること。このうちの一つ以上の条件をみたす者が、アラブなんだという説が出されていますが、ここらあたりが妥当でしょうね。
 しかし、母国語がアラビア語であるべき子供が外国で生まれ育っても、やはり、アラブ。イスラム教でなくて、キリスト教のアラブもたくさんいる。コミュニストのアラブもいる。しかしまぎれのないアラブ社会にいるように見えても、エジプトのコプト派のキリスト教徒と、それからユダヤ人たちは、自分たちをアラブとは思っていない、とバタイは書いておりますな。」


ここで曾野さんは、読者の気持ちを代弁するかのように、

「少しめんどうくさくなって来ました」

と仰る。
面倒なのである。この本を読めば読むほどわからなくなってくる。
戒律により人目を避けて幽閉されたような生活を送るアラブ人女性もいれば、パレスチナでは女性戦士もいる。
イスラム教は砂漠ならではの宗教だというが、砂漠に住まいする遊牧民ベドウィンは、敬虔なイスラム教徒ではないらしい。
親切にしても恩を感じたりせず、一度のサービスが次の商売には結びつかない。その一方で、ぼったくりタクシーの運転手を怒鳴りつけた日本人が、後日、町中で自分にむかって手を振っているその運転手を見つけたりする。

曾野さんは「知らないかぶり」が上手だと思うのは、曾野さんご自身の感想や説明は、多くの関連書物を読まれたのであろう豊富な知識と宗教に対する深い理解に基づいていて、大変わかりやすいものだからだ。

そんな説明の助けを借りて、私が感じたことは、アラブはその自然環境によって性格づけられたのではないかということだ。厳しい砂漠には圧倒的に水が足りない。少ない水を巡って、人びとは絶対に譲り合わない。命に関わるからだ。譲らないのと同じように、人を信用しない。それが生きる知恵なのだ。

例えば、エジプトのサダト大統領の言葉を、こう分析している。

「(前略)・・・そもそも永遠の敵もなく、永遠の友というものもない」
 この返答は日本人とエジプト人の根本的な差をあらわしている。日本人は「永遠の敵はない」というところで感動して終わりにする。しかしサダトは冷静に(当然のことであるが)「永遠の友もない」という現実を確認するのである。


そして、ついつい現在の日本に結びつけてしまうような文章が目に入ってくる。

譲り合うのがいい、と日本人が考えることは自由である。しかしこの地球上の恐らく大多数の人間は、譲り合うことになどいささかの意義をみとめていない、ということもはっきりと確認すべきなのである。

譲り合いの精神は日本人の美徳である。しかし、それは譲り合うだけの余裕がある、豊かで平和な国でしか育まれ得ないものなのかもしれない。そして外交という、価値観の違う相手と駆け引きをしなければならない場面では、その美徳は命取りにもなる。水が獲得できないアラブ人は生きられないのと同じように。

 まさに、アラブ諸国こそ、その人間の原型を保っており、日本人の方が異様だということさえ言えるのかも知れなかった。

また、もう一つ現代の日本人の方が異様なのかもしれないと思ったのは、アラブの次の格言を知ったときだった。

「宗教を呪え、そうすれば神は助けてくれる」
忠実なもの、良きものが必ずしも報いられないということはアラブにおいても真実なのであった。


日本では、その真実が忘れられ、「金で買えないものはない。」「努力すれば必ず夢が叶う。」「人は皆平等に幸せになれる。」という甘い言葉が横行している。だから少しの不運にも耐えられない、不平不満の多い、弱い民族になっているのではないかと思う。

アラブ人とは結局誰なのかは、よくわからなかった。
しかしアラブとは何かは、おぼろげながらイメージがわいてきた。人間の原型のまま、過酷な自然環境の中でも強く生きていく民族のことのようである。




『ユダヤ・キリスト・イスラム集中講座 宗教紛争はなぜ終わらないのか』 井沢 元彦

ユダヤ・キリスト・イスラム集中講座 宗教紛争はなぜ終わらないのか ユダヤ・キリスト・イスラム集中講座 宗教紛争はなぜ終わらないのか
井沢 元彦 (2004/11/20)
徳間書店
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オーストラリアに来て数ヶ月のイスラム教徒の知人が、突然キリスト教に改宗した。しばらくして、町の教会で「かつてイスラム教のテロリストだったが今はキリスト教に改宗した人」の講演があると聞いた。

一方、友人の中でも、仏教徒、ヒンズー教徒、それに私は、共通の友人に熱心なキリスト教(英国教会)の信者がいて、キリストのお話を聞く機会が多いが、否定もしなければ改宗もしない、したたか三人組である。

これは、一神教と多神教の違いによるものではないかと感じていたが、そもそも一神教について、あまりにも知識がないので、この本で勉強をしてみることにした。

前半部分に、ユダヤ教→キリスト教→イスラム教と誕生してきた経緯と、それぞれの違いが書かれている。そして後半は、各宗教のリーダー的な仕事をされている方へのインタビューで、主にお互いの宗教についてどう思っているかを聞き出している。

これを読んで、この三宗教が、いかに近いものかということがわかった。ユダヤ教のラビがインタビューで話していたが、ユダヤ教という母親の元に、キリスト教とイスラム教という二人の娘が生まれたという図式らしい。

私の理解で整理してみると、

◆各宗教の考え方
①ユダヤ教
まず最初に唯一絶対の創造神という考え方を生み出した。ユダヤ人はその神から撰ばれて救われる民族だという考え。
②キリスト教
「今までのユダヤ人しか救わないという考えは間違っていたから全人類が救われる新しい考えと交換した方がいい。」とキリストという姿で神が伝えに来た。だからキリスト=神である。人間でない証拠に死んだ後で復活した。だからイースター(復活祭)は大事な行事。
③イスラム教
ユダヤ教、キリスト教を経て、アラブではムハンマドという預言者(神の言葉を伝える人間)が、これこそが最終の教えであると、コーランを口述した。キリストはいたし、キリストの言葉は正しいけれど、それは数ある預言者の一人であって、神そのものではない。

◆それぞれの宗教の共通点
①ユダヤ教とキリスト教
自分達の創造神「ヤハウェ(エホバ)」は共通。イスラム教はイスラム教徒以外を豚や猿だと呼んだり、殺戮を認めるから、ムハンマドは預言者でないし、アッラーの神は「ヤハウェ(エホバ)」ではないという点で一致。
②ユダヤ教とイスラム教
唯一絶対神は一人しかいないはずだからキリストは神ではないという点で一致。
③キリスト教とイスラム教
ユダヤ民族しか救わないという宗教は間違いであり、全部の民族を救うというキリストの教えは正しいという点で一致。

インタビューからは、現代の経済、領土などの要素が絡んだ複雑な問題や、相手に対する疑心暗鬼などが垣間見られる。

このインタビューで「そういうことなのか!」と思ったのは、アメリカはイスラエルを擁護し、ユダヤ人の帰還を積極的に支援している理由について、ユダヤ教とイスラム教の両方から出ていた見方だ。
キリスト教では、イエスの再臨が信じられている。それは、全てのユダヤ教徒が一堂に会して、キリスト教に改宗したときに叶うのだという。その再臨を早めるため、まずはユダヤ教徒を集めようと、ユダヤ人の帰還を懸命に手助けしようとしているというのだ。
そしてこれについてユダヤ側は「意図はわかっているが、帰還を助けてくれるなら断ることもない。利用しよう。」、イスラム側は「キリストの再臨は自分たちも信じているけど、ユダヤを集めるのは自分たちの領土以外のところでやってくれ。」と考え、パレスチナで紛争が起きるらしい。

日本人として、一番興味深かったのは、インタビューに応じたユダヤ教、イスラム教のそれぞれの代表は、両者とも日本に住んでいらした方で、そのためか、他宗教に大変寛容なご意見をお持ちだということだ。

オマール(イスラム教)
 それから、宗教で強制してはいけないというのは、これはコーランの言葉なのです。みんな生まれつきの信仰を持っていて、生まれた環境で、キリスト教になったり、イスラム教になったりする。
 先ほど、私がイスラム教を本当に理解したのは日本に来てからと言ったのは、今まで持っていたものが当たり前に思っていたけれども、違うものがわかって、自分が持っているものが何かということを、そのとき初めて理解したわけです。他の人の文化を理解したから、おかげさまで、自分の持っている文化のよさを教えてもらったんです。自分の持っている信仰に、私は初めて気がついた。ですから、そこには対立は起こるはずがないんです。


ラビ・マーヴィン・トケイヤー(ユダヤ教)
 私は日本の伝統、文化、日本人の中に、非常に美しい人生観、概念、宗教を見いだしたのです。それは私たちユダヤ人が学ぶべきものであり、また世界が学ぶべきものです。ユダヤ人にとって日本人は友です。我々は日本人に対し尊敬の念を抱いています。
 この観点から見て、日本人が唯一の神を信じようと、2つの神を信じようと、たくさんの神を信じようと問題ではないのです。日本の中に見出される、それら尊いものは、尊敬に値します。それで充分なのです。

 
お二方とも、まるで多神教の信者のようだ。この本を読めばわかるが、一般の一神教信者は、ここまで寛容ではない。一つの神しか信じない人が、他人は他の神を信じても良いと認めるようになるだけでも、宗教紛争はかなり減るのではないだろうか。日本が、そうした考え方を吸収する場所となっているという事実に驚き、嬉しくもあった。

私は、この本を読むまでは、一神教が複数共存することは出来ないのだと思っていた。しかし、日本で柔軟性を身につけたオマール氏や、トケイヤー氏の言葉を読んでいると、不可能ではない気がしてくる。唯一絶対神はいるけれど、民族によって解釈や伝わり方が違うのだと考えれば良いのだ。そこで問題になるのが聖書の記述で、聖書に書いてある「敵」は「敵」のままだし、「裏切り者」は「裏切り者」のままだ。だが、トケイヤー氏は言う。

「キリスト教的な聖書の読み方」をしてはいけません。何もかも字義通りにとるのではない。私たちは聖書を学びますが、考古学的な資料や、歴史学の助けも借りながら読みます。

聖書の記述には、その時の政治状況や布教の効果を狙ったものもあるのだから、記述を盲信してはいけないということだ。これには頷かされた。
神は唯一絶対の存在かもしれないが、聖書は人間の手によって書かれて編集されているのだから、間違いや何らかの意図が入らないとは言えない。聖書は唯一絶対ではないのだ。その当時の信者や、布教活動に合わせて作られている。それが、その地域の、その周辺にいた民族(住民)への伝わり方であり、別の人達には別の伝わり方があってもいいと考えれば、争うこともないのにと思う。それをトケイヤー氏は、このように言い表している。

例えば太陽からは様々な光線がやって来ます。それらの光線を神道、仏教、ヒンズー教、ユダヤ教・・・などと考えることができます。またニルヴァーナ(涅槃)に至る道がいくつもあります。あなたの道もあれば、私の道もある。だから道は違っても、あなたの隣に座れるし、あなたも隣に座ってくれればいい、友人として。

こうした考え方が、日本で醸成されたらしいことは誇らしい。それも、日本が、彼らから尊敬されるような「伝統、文化、非常に美しい人生観、概念、宗教」を持っていたからである。
逆に、日本が彼らから学ばねばならないのは、自分たちの「伝統、文化、非常に美しい人生観、概念、宗教」を尊び、愛し、守っていこうとする熱意である。


追記
文中で、イスラム教の預言者「ムハンマド」と書くところを、うっかり間違えて「モーセ」(ユダヤ教の預言者)と書いていました。ご指摘を頂き修正いたしました。(H18.11.14)
教えてくださった方ありがとうございました。

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